前回の「保渡田古墳群」の続きです。
まずは前回書き忘れた八幡塚古墳のスペックを紹介。
墳丘長102メートル、後円部径56メートル、高さ現存約6メートル、前方部幅53メートル。高さは削平されて分からない。
そして今回は、この古墳群の中で最大の「二子山古墳」の紹介。忘れない内にスペックから。
墳丘長108メートル、後円部径74メートル、高さ10メートル、墳丘部が三段築成で、前方部幅71メートル、高さ7メートル。
こちらは八幡塚古墳と違って葺石は復元されていない。これは、「発掘前の古墳の形状をできるだけ変えない手法で整備された」ということらしい。
代わりに(?)模型がある。この古墳にも、先述の「中島」が4つある。
古墳へ至る参道。
何ですと!?まあ、著者は爬虫類は苦手でも何でもないので、そのまま進む。
後円部を登り切った先には、八幡塚古墳のような魔改造はされていないが、石棺の実物大写真パネルが置かれている。
なかなか面白い。
後円部から前方部と、逆方向をそれぞれ望む。
中島が見えたので行ってみる。
こちらの中島には復元埴輪は置かれていない。
墳丘上にも復元埴輪は無いが、「埴輪の立て直し」跡があった。何度か修復していたらしい。古代人も大変だな。
また、この墳丘は三段に築かれていたようだが、今の状態では分からない。
様々な角度から撮影。ところどころ、人物が写っているが、老人が孫を連れて遊んでいた様子。
さて、この古墳群にはもう一つ「薬師塚古墳」があるのだが、こちらは公園外にあるため、今回は行かなかった。この地は自宅から近いので、いずれ行く予定ではあるが。
公園内には埴輪工房もあり、敷地内に人物埴輪や円筒埴輪が並んでいる。
そして、大室古墳群同様に竪穴住居跡も復元されている。
良い物件だ。引っ越したい(←しつこい)。
しかし、このように外見を見ると、前面上部の木組みが神社の千木に見える。あるいは、千木の原型はこれなのかもしれない。と言うより、この時代の木組みの名残りが千木のようだ。
こちらは、同じく敷地内にある「かみつけの里博物館」。以前に来た時には入場した。
古墳の出土物や、付近の「三ツ寺遺跡」の展示物がある。もちろん館内は撮影禁止なので写真は無い。
余談だが、この古墳群および公園内は、現在ではスマホゲー「ポケモンGO」のポケストップが多くあり、つい先日も近くを車で通った時、スマホを片手にうろついている人間が大勢いた。
著者もゲームはやるので否定はしないが、ポケストップは文化財に多くあり、ここでなくても史跡等で文化財そっちのけでスマホの画面ばかり見ている人間には閉口する。特に寺社においては、遊ぶなら参拝を済ませてからが礼儀というものだろう。
いずれにせよ、この古墳群も全長100mを超える前方後円墳が三基もあることからして、かなりの勢力の豪族が存在したのだろう。これまた「毛野氏」「毛野国」ということだろうか。
とにかく群馬県内は古墳が多い。他にも色々調査してきているので、古墳シリーズはもう少し続く。
<オマケ>
前方後円墳の形は、方墳と円墳を組み合わせたものと言われているが、異説もある。
それは、前方後円墳=壺とする説である。今ではそれなりに有名な(?)説となっていて、こんな画像もネットで見かける。
この壺は古代イスラエルの三種の神器の一つ「マナの壺」であり、仁徳天皇陵などは壺の取っ手も「造出し」として再現されている。
このマナの壺を継承していたのが「イスラエルの失われた十支族」の一つガド族であり、だから天皇の古称「ミカド」はヘブライ語の「ミガド」(ガドから来たの意味)であるとか。
となると、群馬県内も前方後円墳が多くあるし、ガド族あるいは古代イスラエル人が来ていたということだろうか?同じく群馬県で有名な「多胡碑」に書かれている「羊太夫」も渡来人であるとの説もある。
この多胡碑含む「上野三碑」も過去に調査して来ているので、いずれ記事にしたいと思う。