特急「白山」食堂車のコーヒー | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

僕が小学校高学年になった頃に、父が、年に1~2回ほど家族を金沢に連れて行ってくれるようになった。
長野から金沢へ、週末の1泊旅行のことが多かった。
父が金沢の大学を出ていたから、恩師や同窓生に会いに行ったのか、はたまた勉強会や研究会だったのだろうか。
大学院在学中に生まれた僕や弟を、生まれ故郷に連れていく意味合いもあったのかもしれない。

車で行ったこともあったけれど、小学4年生で突如として鉄道趣味に目覚めていた僕が楽しみにしていたのは、何と言っても、鉄道で行く場合だった。

当時は、ぴったりと都合のいい列車が存在した。
特急「白山」である。

石川県の名山の名を冠し、上野から長野経由で金沢まで走り抜く長距離特急電車だった。
 
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当時、上野と金沢を結ぶ特急列車には上越線経由の「はくたか」もあり、家族の金沢旅行で1度利用したこともある。
長野から急行「妙高」で直江津に向かい、「はくたか」に乗り継いだのだ。

上野と金沢の所要時間は、「はくたか」より「白山」の方が長かった。
距離は「白山」が短かったのだが、越えなければならない碓氷峠や信越国境の山岳地帯がネックだったのだろう。

その代わり、1日1往復だった「はくたか」に比べて、「白山」は昭和50年代初頭に3往復が走っていて、手元に残っている昭和52年の時刻表に寄れば、上野発9時34分の1号、11時34分の2号、そして14時34分の3号がある。
上りは1号が金沢発7時07分、2号が10時11分、3号が13時10分だった。
僕ら家族は、父が仕事を終えてから、長野を17時39分に発って金沢に21時10分に着く「白山」3号に乗るのが常だった。
 
 
昭和52年の時刻表を開けば、上野を14時34分に発車した「白山」3号、列車番号3007Mは、

大宮14時56分
高崎15時44分
横川16時14分
軽井沢16時34分
上田17時08分
長野17時39分
妙高高原18時17分
直江津18時57分
糸魚川19時25分
魚津20時04分
富山20時25分
高岡20時39分

と停車し、終点金沢に21時10分に到着したことがわかる。

6時間36分もの長旅であるが、停車駅が他の特急に比べて絞られているのは、長距離特別急行列車の貫禄と言えるだろう。
上野-長野間を走る特急「あさま」が停まる中軽井沢や小諸、戸倉には停まらなかったのかと驚いてしまう。
後には、中軽井沢、小諸、戸倉だけでなく、高田、滑川、黒部、石動、津幡など、大幅に停車駅が増えたのだが。

当時は上りも下りも、発車順に1号、2号……と番号を振っていて、今のように号数を偶数、奇数に分けてはいなかった。
「8時ちょうどのあずさ2号」が、新宿から下り列車として発車していた時代である。

ちなみに、上越線経由の「はくたか」は、上野を8時30分に発車して、高崎、長岡、柏崎、直江津、糸魚川、魚津、富山、高岡に停車し、金沢に14時50分に到着する、大回りにも関わらず所要6時間20分という韋駄天ぶりだった。
大宮通過にはびっくりしたものだった。
この俊足を誇る特急、乗りたかったと思う。

それでも僕は、上越線経由の「はくたか」より長野回りの「白山」を、流行歌に歌われた松本発着の「あずさ」より長野発着の「あさま」を熱烈に贔屓にする、郷土愛に溢れた、他愛もない鉄道ファンの子供だった。
 

「白山」3号が長野を出ると、既に日は大きく西に傾いていた。
冬であれば、車窓は真っ暗だった。

北長野、三才と長野市内の駅を通過するうちに市街地は尽きる。
ぎっしりと繁るリンゴ畑の合間を抜けて、豊野で飯山線を分岐すると、信越本線は暗くなりかけた善光寺平に別れを告げ、信越国境の奥深い山岳地帯に向かって高度を上げていく。
平行する国道18号線を行き交う車も、ヘッドライトを点け始める。
牟礼駅の付近で線路はいつの間にか単線になり、そそりたつ山肌が窓の間近に迫る。
線路はうねうねと曲がりくねって、「白山」は速度を全く上げられない。

日が長い季節でも、県境の黒姫駅から妙高高原駅まで来れば、とっぷりと日が暮れて、寂しげな沿線風景も闇の中に溶けるように消えていく。

その頃から、僕や弟はソワソワし始める。

上野と金沢を長時間かけて結ぶ「白山」には、当時、食堂車が連結されていた。
 

まずは母と弟が、食堂車に行くために席を立つ。
荷物番をするためにも、4人家族揃って食堂車へ、というわけにはいかなかった。
母と弟は、長野を出て1時間あまりで着く直江津までには帰ってきた。

「白山」は信越本線と北陸本線が接続する直江津で5分停車し、進行方向を変える。
車内では乗客がざわざわと立ち上がって、ガタンバタンと座席の向きを変え始めるが、最初から4人向かい合わせにしている僕らは動かない。
後ろの座席の回転に邪魔にならないよう、倒していた背もたれを戻したり、気は使ったものだった。

直江津を出て、山間を縫う信越本線より線形のいい北陸本線に入ると、「白山」は別人のように元気になって、滑らかに速度を上げていく。

今度は、父と僕が食堂車へ向かう番だ。
父は、金沢へ行く時だけは、グリーン車を奢ってくれた。
学生時代を過ごした街に、錦を飾りたかったのかもしれない。
グリーン車と食堂車はともに編成の中ほどで近かった。

「白山」の食堂車がそれほど混んでいた記憶はない。
いつも、4人がけのテーブルに父と2人で座ることができた。

さて──食堂車で何を食べたのか?
実は、とんと記憶がない。

昭和50年前後の食堂車メニューを、当時の時刻表から抜粋してみると──。

朝定食(洋)350円
朝定食(和)300円
特別ビーフステーキ定食1200円
ビーフステーキ定食800円
ビーフシチュー定食500円
グリルチキン定食400円
プルニエ定食450円
カツレツ定食350円
ランチ350円
幕の内(吸物付)300円
うなぎご飯(吸物付)500円
カレーライス180円
チキンライス180円
スープ150円
海老フライ380円
ハムオムレツ150円
ベーコン・ハムエッグス150円
サーロインステーキ500円
ハンバーグステーキ280円
ポークカツレツ250円
ビーフカツレツ350円
ハムサラダ240円
コンビネーションサラダ200円
スパゲッティ200円
ハムサンドウィッチ180円
ミックスサンドウィッチ220円
郷土料理品(季節)150~300円
中華一品料理150~300円
ご飯50円
パン・トースト(バター付)50円
チーズ(クラッカー付)70円
チップポテト100円
ビール(大)200円
ビール(小)120円
黒ビール(小)130円
ギネススタウト240円
清酒(特級180ml)200円

懐かしい……。
しかも、値段が時代を感じさせる。

こうして書いていても、やっぱり何を食べたのか思い出せないけれど、揺れるテーブルで平たい皿に盛られたコーンスープがこぼれないか心配した記憶が、かすかに残っているから、洋風の定食だったのかもしれない。
父は全くお酒を嗜まない人種だったから、おつまみ系は頼まなかったはずであり、それほど長居もしなかったと思う。

金沢行きの特急「はくたか」に乗り継いだ急行「妙高」で、立ち食いのビュッフェに連れて行ってもらった記憶もあるけれど、その時に食べた品目は、「白山」の食堂車に増して記憶に残っていない。(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11733873604.html
食べ物より、列車そのものや車窓の方に関心を向ける、マセた子供だったのだな、と今では苦笑するばかりである。

「白山」は、谷浜、能生と、僕らが家族や学校で海水浴に行った新潟県西部の浜辺の町を駆け抜け、糸魚川を経て、親不知子不知の難所を、幾つものトンネルで抜けていく。
食堂車の大きな窓は闇に塗り潰されて、明々とした車内で食事をする父と僕の姿を映し出すだけだったが、気配や音でトンネルが断続しているのは分かった。
トンネルに入ると、窓ガラスがグワンと風圧に押されて、鉄の車輪が線路を噛む走行音が、壁に反響して甲高くなる。
コォーッと、もの哀しい風切り音が遠くに聞こえ始める。
一定の間隔で、横に線状に流れていく照明を眺めていると、楽しみにしている食事中であっても、無性に心細い気持ちになった。
 

長野への帰りに利用した上りの「白山」は、同じ区間を昼間に走破する。
金沢を13時10分に出る「白山」3号(3008M)で、長野への到着は16時45分だった(上野着は19時52分)。
出でてはくぐるトンネルと、真っ青な日本海がコントラストを際立たせて、次々と入れ替わる車窓が楽しみだった。
落石防止や防雪設備なのか、トンネルの合間に海側に設けられている仕切り板が、一定間隔で格子のように貼られて、高速で疾走する特急列車の車窓から眺めると、コマ送りの映画のように見える区間があったことが、今でも印象深く思い起こされる。

帰りに食堂車へ連れて行ってもらった記憶はないけれど、お土産に買った富山名産の「鱒寿司」を夕食で食べると決まっていたから、その方が格段に楽しみだった。
車窓も、帰路の方が往路と比較にならないくらいに明るく陽気で、変化に富んでいた。

行きは、ひたすら続く深い闇を見つめながら、帰りの鮮やかな車窓風景を瞼の裏に想像するだけの、夜汽車の道行きだった。
 
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初めて「白山」の食堂車で食事をした時、食後にコーヒーが出てきた。
僕が頼んだのか、それとも父だったのか。
確か、定食ではコーヒーしか選択肢がなかったような気もする。
父は、仕事中も欠かさないほどのコーヒー党だった。
普通のインスタントでありながら、どす黒く濃いコーヒーを、自分で入れて飲んでいた。

当時の僕は10歳である。
あの時、生まれて初めて飲んだコーヒーの味は、今でもはっきりと覚えている。
唯一記憶に残っている、明瞭なメニューの記憶である。
気が狂いそうになるくらいに、不味かったのだ。

今の僕は、父に負けないコーヒー愛好家だけれども、「白山」の食堂車のコーヒーは、今、思い出しても、どのようなコーヒーと比べても、最も不味い部類に入ったと思う。
席に戻ってから、頭が痛くなったくらいだった。

以後、それがトラウマになって、僕は大学生の頃までコーヒーが苦手になった。
僕がコーヒー初体験をしたのは、特急「白山」の食堂車だったのだ。

今でも、コーヒーを飲むと、40年前に体験した特急「白山」の食堂車のコーヒーの味と、暗くトンネルが断続した北陸本線の夜を、ほろ苦く、それでいて無性に懐かしく思い出すことがある。
 

「白山」の食堂車は、在来線の日中の特急電車では、1番最後まで残っていたことでも知られているが、昭和60年に廃止された。

大学生になってから、上野から金沢まで「白山」を乗り通したことがあったが、その時には、既に食堂車は連結されていなかった。
僕が進学のために上京した直後に、父は病で急逝していたので、昔と変わらぬ車窓を眺めながら、父と過ごした食堂車の思い出に浸った、長い長い6時間の車中だった
 
 
「白山」そのものも、平成9年10月の長野新幹線開業と同時に姿を消した。
平成27年の北陸新幹線開業で、「はくたか」の愛称は復活したけれども、「白山」は復活しなかった。
長野を経由するルートであるから、「白山」の方が似合っているじゃないか、と思うのは、僕の感傷に過ぎないのだろうか。
東京と金沢を所要2時間半足らずで結ぶ韋駄天ぶりには驚くしかないが、食堂車は、当然の如く連結されていない。
 
 
今では、東京と金沢を結ぶ高速バスが、「白山」と似たような所要時間で、上信越自動車道を経由しながら北陸道へ抜けていくが、途中の長野には停まってくれない。
高速バスが開業した時には、無料のインスタントコーヒーやティーパックのサービスがあったけれども、時刻表を見ると、現在はそれすら消えてしまっている。

今となれば、列車でも高速バスでも、移りゆく車窓をゆったりと眺めながら、食事を楽しめた時代を経験できたことが幸せだった、と思うのみである。
 
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ブログには、他にも、東京・長野・金沢を結ぶ鉄道について記した記事があります。
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