郷愁あふれる信濃路への高速バス~JRバス関東「佐久・小諸」号としなの鉄道~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

当直明けの8月最後の日曜日のこと。

慌ただしく自宅に帰り、妻と一憩した僕は、腕時計を気にしながら、いささか慌て気味に再度自宅を飛び出した。
家の近くの明治通りのバス停から渋谷行きの路線バスに乗って南下。
甲州街道を越え、高島屋の巨大なビルを過ぎてしばらく走った千駄ヶ谷4丁目のバス停で、バスを降りた。
降り出した小雨が少しばかり強くなり、鞄の中の折りたたみ傘を取り出すかどうか迷いながら足早に歩くうちに、新宿南口バスターミナルに着いた。


目指すは、信州は佐久・小諸に向かう高速バスである。
平成21年10月に登場したばかりの新しい高速路線だった。

もともと、東京と佐久・小諸・上田といった塩田・佐久平の街々を結ぶ高速バスは、池袋発着の系統が、上信越自動車道が開通する前の平成3年から運行されていた。
開業直後、長野へ向かう途中に利用したことがあり、関越自動車道を藤岡インターで降りて、コスモス街道国道254号線で急峻な中山峠を越えて佐久平に向かう経路が、とても新鮮で面白く感じた。
当時の佐久市は東京との直行交通機関に恵まれず、小海線で小諸まで出なければ上野行きの特急列車に乗れないという不便さをかこっていたから、人気路線になったと聞いている。
しかし、平成9年開業の長野新幹線が佐久平駅を設け、並行在来線が第3セクターしなの鉄道となり碓氷峠の区間が廃止されたことで、逆に、小諸が東京に直行する公共交通機関を失うこととなった。



そのような激動の交通体系の変化に見舞われた上田・佐久平地域と首都圏を結ぶ貴重な足として、池袋発着の高速バスは黙々と走り続けてきたのだが、平成21年に別のバス会社が新宿を起点として佐久と小諸を結ぶ高速路線を、いきなり開業したのである。


そんな後出しじゃんけんみたいなやり方ってありなのか、とびっくりしたけれども、世の中は規制緩和が花盛りという御時世だったから、「佐久・小諸」号と名付けられた新しい高速バスは、平然と明治通りを行き来し始めた。

新宿駅南口のバスターミナルから明治通りを北上して、早稲田口の先で新目白通りへ左折、関越道へ向かうルートをとり、高速に乗るまで1時間近くかかる。
まどろっこしいけれど、関越道は首都高速と繋がっていない唯一の高速道路だから、池袋発着路線も大して変わりはない。
新宿在住の僕にとって、故郷の信州へ向かう高速路線バスの中では、最も目にする機会が多いバスとなった。

開業直後に見かけた「佐久・小諸」号はいつもガラガラにすいていて、これではすぐに消えてしまうぞ、と前途を危ぶんだものだったけれど、そのうち、午前の上り便と午後の下り便を中心に、ポツポツと乗客が増えてきたようである。

乗り物ファンとして、信州各地を発着する高速バス路線くらいは全て乗っておきたいと思っているので、今回、信州の実家に向かう機会に利用することにしたのである。


雨足が強くなってきた。
乗り場に横づけし、ひっそりとエンジンを切った10時30分発の小諸・高峰高原行き高速バスも、屋根から飛沫を上げながらじっと雨に打たれている。
クーラーも止まっていて、蒸し暑い車内で待つうちに、ようやく発車時刻となった。
女性係員が合図して、「佐久・小諸」号は悠然と道路へ乗り出していく。
高島屋を仰ぎながら明治通りに抜け、ところどころで渋滞に引っ掛かりながらも、それほどの遅れもなく関越道へ駆け上がった。

日曜日の午前中だったけれども、高速道路は空いていた。
バスの走りというものは、多分に運転手さんの個性に左右されることが多いのだが、このバスの走りは果敢な部類に感じられ、定期高速バスには珍しく追い越し車線を占めている比率が高い。


あれ?今追い越した白いセダン、中に乗っているの警察官じゃなかった?覆面?(写真)

と、ギョッと身を乗り出した時もあった。
追跡される気配は全くなかったから、制限速度範囲内なのであろうか。

単調な関東平野を進むうちに、いつしか雨は上がり、高曇りになって周囲が少しばかり明るくなった頃、バスは寄居SAで休憩時間をとった。
湿り気が多い分、東京よりも蒸し暑くどんよりと淀んだ空気が身体にまとわりつき、猛暑の最高気温の更新が話題になる北関東らしい天候だった。


藤岡JCTで上信越道に舵を切り、ハイウェイは関東平野の縁を成す山裾に踏み込んで、それまでとは打って変わって起伏の多い地形になる。
群馬と長野の県境に独特とも言える、ごつごつした奇怪な山容の山並みは、雲に隠れて見えなかった。
それでも、山々の合間に見え隠れする関東平野がぐんぐん下方に遠ざかり、バスが高度を稼いでいく様子が実感できる。
幾つもの長大トンネルで碓氷の境を越え、前方の山あいに佐久平の眺望が開けるあたりは、上信越道でも白眉の車窓だと思う。
ようやく信州に来たぞ、という懐かしさと相まって、僕が大好きな景観である。


間もなく、バスは佐久ICで高速を降り、稲刈りがまだ済んでいない水田地帯を渡っていく。
学生時代に乗車した池袋-佐久・小諸間高速バス以来、大層御無沙汰だったが、見覚えのある懐かしい景色が過ぎていく。
20年以上も前のことだから、大きく変化している車窓も少なくないけれど、僕が目を見張ったのは佐久平駅だった。
田圃しかなかったと思しき場所に、大小様々な全国チェーンの店舗が賑々しく軒を並べ、駅舎も堂々たる建築物である。
規模としては比較にならないけれども、魔法のような激しい変貌は、東海道新幹線の新横浜や新大阪にも似ているのではないだろうか。

華やかさでは、間違いなく、ここが佐久市の新しい中心と言えるだろう。


佐久市を構成する主な集落は、岩村田、中込、臼田などと市内に分散しており、池袋発の高速バスはそれぞれにこまめに停まったけれど、「佐久・小諸」号は、岩村田と佐久平駅を経由しただけで小諸に向かう。
岩村田の街並みは20年前と変わらず鄙びていて、ああ、この交差点、20年前に乗ったバスも曲がったっけなあ、と無性に嬉しくなった。
古びたアーケードが伸びる商店街も懐かしい。

故郷に帰ってきたな、と、しんみりした。


国道18号線で、千曲川の河岸段丘を幾つも上り下りしてから、バスは急傾斜の斜面を下って小諸市街へ入っていく。


対向車と譲り合いながら狭い路地を抜け、小諸駅前に到着したのは、定刻よりやや早い午後1時30分だった。


「佐久・小諸」号は、そのまま高峰高原行きの路線バスに変身し、鉄道からの乗り換え客が十数人ほど乗り込んだが、東京から直通する客はほとんど居なかった。


バスを降りると、一瞬、タイムスリップしたかのような感覚にとらわれた。
小諸駅舎のたたずまいも、こぢんまりとしたロータリーの雰囲気も、線路の向こうの懐古園の緑も、池袋発の高速バスでやって来た20年前と全然変わっていなかった。

新幹線が来なかった街。

時が止まったままの街。

住民の方々には申し訳ない感慨であるけれども、小諸こそが、子供の頃から慣れ親しんできた古き良き故郷の温もりを、そのまま残してくれていた。



長野までは、しなの鉄道に乗り換えた。


池袋発の高速バスに初めて乗った時も、帰省の途中だったから、小諸から電車を利用した。
長野市まで高速バス路線が通じていない時代であったから、早く開業しないかな、と思いながら駅舎をくぐったものだった。

しなの鉄道は、平成9年の長野新幹線開業と同時に第3セクターとして経営分離された信越本線の生まれ変わりである。
古びたホームで待っているのは、国鉄時代から数十年と走り続けている古参の近郊型電車だった。

塗装もJR時代のままの、青を基調とした「長野色」である。



構内には、今では珍しくなった木製の跨線橋も残って情緒満点だけれども、僕の目を惹きつけたのは、隣りのホームで休んでいる電車だった。


濃淡のグリーンに塗り分けられ、碓氷峠の日本一の急坂を補助機関車を連結して上り下りができるよう特別に設計されていた特急「あさま」専用の189系車両である。


平成9年の長野新幹線開業までは、まさしく信越本線のエースだった。
国鉄時代の肌色と赤の旧塗色から、爽やかな「あさま」専用色に塗装されたのも束の間、新幹線開業で全列車が引退。
一部は中央東線の特急「あずさ」や、新潟方面の特急・快速に転用されたが、それも減りつつあると聞く。

小諸駅の189系は、所属はJR長野支社でありながら、しなの鉄道の朝夕の通勤快速に使われているようである。



この塗色の189系を見たのは何年ぶりだろう。

そして、子供の頃から、何度、この電車で東京と長野を行き来したことだろうか。


時には家族や友人と一緒に。

時には一人旅で孤独をかみしめながら。


国道18号線や千曲川に沿って屋代、戸倉、上田、小諸、中軽井沢、軽井沢とたどった長野県内の信越本線。

軽井沢と横川で補助機関車を着脱し、急勾配での不安定さを解消するため台車の空気バネからエアを抜き、ごつごつした乗り心地で、連続するトンネルと橋を渡りながら越えた碓氷峠。

ホームを走って買い求めた横川の釜飯。
不気味な外観を晒していた安中の亜鉛工場。
ちょっぴり退屈だった、関東平野の区間。
大宮を過ぎて荒川を渡れば、窓をぎっしりと覆い尽くす東京の街並み。

不意に脳裏に蘇ってきた車窓の数々に、視界の中の189系がぼやけたように思ったのは、気のせいだったのか。


ただ、往年の特急「あさま」の勇姿を知る世代、「あさま」で子供の頃から東京と長野を往復してきた者としては、小諸駅で出逢った189系は、落剝した役者を見るような寂しさを感じるのも事実である。
栄枯盛衰は世の常、というけれど。


小諸駅を発車した長野行き普通列車の乗り心地もまた、昔ながらの素朴さが残っていた。

滋野、田中、大屋……と停車していく駅の佇まいも変わらない。


上田の駅だけは、新幹線の高架ホームが右手の視界を塞いで真新しかった。


西上田駅近くの食品工場には、大学時代のトラック助手のバイトで何回も来たことがあった。
しなの鉄道と平行して走る国道18号線も、家族でのドライブやトラックのバイトで数え切れないほど往復したから、今でも、このカーブを曲がった先がどうなっているのか、などと沿道の光景をありありと思い浮かべることができる。

子供の頃、親戚が一同に会して1泊し、僕にとって生まれて初めて浸かった温泉となった上山田温泉は、戸倉駅が最寄りだった。


そして、自動車免許を取得するための本免試験を受けた時に下車した屋代駅。

川中島・篠ノ井の両駅は、小学校3年の6月に、初めて電車を使った遠足で茶臼山に行った時に乗り降りした駅だった。

改札の合間から、数々の思い出溢れる駅前風景が垣間見えるのも、在来線鈍行列車の魅力である。
20年という歳月の虚しさが身に沁みたのは、屋代駅の構内だった。

車窓の右手にある、しなの鉄道よりも若干狭く古びたホームに乗り入れていたはずの、長野電鉄河東線の線路が、きれいさっぱり消え失せていた。

屋代駅を出て、しばらくの間しなの鉄道と寄り添っていた線路も撤去されて、赤錆色のレールの痕跡が残るバラストだけが敷かれているのが痛々しい。

しなの鉄道から右へ分かれていく先に垣間見えたのも、傾いた踏切の標識と、雑草が生えた畦道のような線路跡だけだった。


全国で数多くの線路が不採算という名目で切り捨てられていった国鉄時代末期からJRへの変革期ですら、長野県では失われた鉄路が皆無だった。
ところが、地方私鉄の雄と評されたこともある長野電鉄は、平成14年4月に信州中野-木島間を、平成24年4月に屋代-須坂間を廃止したのである。


僕の回想を吹き飛ばすかのように、篠ノ井駅付近からは、颯爽と伸びる長野新幹線の白亜の高架が寄り添ってきた。

轟々と走行音を響かせながら、犀川と裾花川の鉄橋を次々と渡れば、終点の長野駅である。

隣りのホームには名古屋行きの特急「しなの」が、向こうの1段高い新幹線ホームには東京行きの「あさま」の姿が、僕を出迎えてくれた。


駅ビルの中の蕎麦屋でざるをすすり、遅い昼食で空腹を満たしてから外に出れば、駅舎そのものやロータリーはすっかり変わってしまったけれども、駅前の繁華街には、幾つも見覚えのある建物が残っていた。
バス乗り場で客を降ろしたばかりの市内循環バス「ぐるりん」号の女性運転手さんが、手鏡を見つめながら身づくろいしているのが、時代といえば時代だろうか。

僕が子供の頃に、女性のバス運転手さんはいなかった。



そして、駅前通りのビル群の向こうにそびえる旭山。

長野市に住んでいた頃には、四季折々の色彩の変化を通じて、季節の移ろいを僕に教えてくれた山を見上げながら、僕は故郷の空気を胸一杯に吸い込んだ。




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(25.8.25)