原発事故に揺れる街へ~常磐線不通区間の南端・広野駅を訪ねて~ | ごんたのつれづれ旅日記

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このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

11月初めの3連休の最後の日、信州からの帰りに新幹線と高速バスを乗り継いで、僕は正午近くの水戸駅にやってきた。

11時35分発のいわき行き547Mに乗って北へ向かう。
シルバーに緑色のラインが入ったスマートな電車だったが、全車両がロングシートの座席で、いわきまでの1時間半を過ごすには面白みに欠け、ちょっぴりがっかりした。
朝夕のラッシュ時の乗客数に合わせているのか、東京寄りの過密区間と車両を共有するためなのか、東日本の普通列車はほとんどがロングシートの車両となってしまっている傾向は、鉄道ファンとしてとても残念である。

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しかし、祭日の昼間で空いていたから、身体の向きを変えたり反対側の窓に席を移したりすることは容易で、進行方向を向いて座れる30分後の特急「スーパーひたち」に特急券を払ってまで乗ろうとは思わなかった。
所要時間も20分程度しか変わらないのである。

定時に発車すれば、列車は爽快に飛ばし始める。
20年ほど前の学生時代、上京して初めて常磐線に乗った時は、普通列車とは思えないほどの韋駄天ぶりに驚嘆したものだった。
常磐線は線形が良く、東北新幹線が出来るまでは東北方面への長距離列車がバイパスとして使っていた程であり、普通列車の水戸-いわき間の所要時間が俊足を誇る特急列車と20分しか変わらないのも、充分に頷ける話なのである。
30分ほど後から「スーパーひたち」が追いかけてくるけれども、547Mが追いつかれて抜かれることはない。

車窓はいつしか市街地をはずれて、のんびりした緑の田園地帯に移り変わっていく。

勝田駅、佐和駅、東海駅……

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東海村は、日本初の原子力の火がともった地である。
日本原子力発電の東海発電所が昭和35年1月に着工し、昭和40年5月4日に初めて臨界に到達、日本初の商業用原子炉となったのである。
27年間に及ぶ営業運転を行い、平成10年3月31日に運転を停止、今では廃炉となり、日本初の商業用原子炉の解体作業が進められている。

日本の原発って、僕と同い年だったのか、と思う。

同じ敷地に立つ日本原子力発電の東海第二発電所の運転開始は昭和53年11月28日で、今も現役である。
東海村には双方の原発で合計2基の原子炉があるだけだが、福島第一原発に6基、福島第二原発に4基の原子炉があり、福井県ほどではないけれども、常磐線沿線も原発銀座という表情を併せ持っている。

東海駅は、がらんとしたホームが伸びているだけの至って普通の駅で、547Mは僅かな時間停車しただけで、呆気なく発車した。

大甕、常陸多賀、日立、小木津、十王、高萩、南中郷と進めば、遠くに見えていた山なみが近づいてきて、関東平野もいよいよどん詰まりといった雰囲気が醸し出されてくる。
乗降する客もめっきりと減り、駅に着くと、しん、と時が止まったかのような静けさがあたりを覆う。

磯原駅を過ぎると、不意に、右側の車窓いっぱいに青々とした海が広がり、僕は身体を横に向けて身を乗り出した。
静かに淡々と波が打ち寄せるだけの、穏やかな海原。
2年半前の震災での惨劇が嘘のように。

常磐線より海側を走る国道6号線・陸前浜街道を行き来する車の量もめっきりと減り、海岸沿いの景観もどこか寂しげになってくる。

遠くまで来たな、と思う。

内陸側を併走する常磐自動車道を高速バスで走った時に、折り重なる山から山へ連続する橋梁とトンネルで渡りながら、右手の遙か下方に海や街が見下ろせる絶好の眺望が楽しめたのも、このあたりだったことを懐かしく思い出した。
あの時見下ろしていた海岸線を、今は走っているわけである。

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大津港駅を過ぎれば、線路は海岸線に別れを告げて内陸へ進路を変えながら、県境を越える。
関東平野は尽き、両側から山肌が迫って視界を閉ざし、右に左にと身をくねらせるようなカーブが続く。
勿来を過ぎれば、軽快に歌うようだった走行音も、どこか響きに曇りを帯びたように感じられた。

「なこそ」とは、来るな、という意味を表す古語の「な来そ」に通じると言い、蝦夷の南下を防ぐ関所だったという説があるが、東北本線沿線にある「白河の関」とは異なり、所在地がはっきりしていない。
古来から数多くの歌枕に詠みこまれている名所だけれども、僕は源義家が詠んだという、

吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背に散る 山桜かな

という歌が好きである。
写実主義の影響を受けていない古歌の多くは、現地で詠んだものではないと言われているらしいが、奥州で活躍した義家ならば実際に来たこともあるのではないかと思う。

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泉、湯本、内郷と、断続するトンネルの狭間に点在する小さな町が窓外を過ぎていく。
湯本と言えば、スパリゾートハワイアンをはじめとする温泉郷が思い出される。
原発事故後に、スパリゾートを盛り上げたダンサー達の奮闘を聞いたことがあるけれど、温泉郷全体の客足は、今も落ちたままだという。

市街地の高台をくぐる短いトンネルを抜ければ、いきなり視界が開けて、547Mは減速しながらいわき駅構内に進入した。
13時04分、定刻の到着だった。
やはり大きな市街地は大きな平野に発展するのだ、と思う。

いわきに来るのは十数年ぶりだった。
この街を訪ねると、いつも雨だったり冬雲りだったり、天候が崩れていることが多かったから、こぢんまりとした駅前広場に古びた駅舎や小さなビルなどが雑然と並ぶ、どこか翳りを帯びた街並みだった記憶が残っている。
広い構内やホームは昔ながらの古びた佇まいだったが、ホームの階段を昇り、真新しい橋上駅の改札を出ると、ハイカラなペデストリアンデッキが広がって、見事に垢抜けた雰囲気に様変わりしていた。
並木が豊かに枝を伸ばす駅前通りも整然としている。

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10年前に高速バスで訪れた時には、ちっぽけな営業所の脇の路地をバスが肩身が狭そうに発車していたものだったが、今では駅の一角に広いバス乗り場が設けられ、東京や郡山・会津、福島方面への高速バスや、市内近郊路線が頻繁に出入りしている。

雲の切れ間から差し込む日光が燦々と照らすデッキの上では、父親に連れられた幼い女の子がはしゃぎ回っている。

片岡に露みちて
蝸牛枝に這ひ
揚雲雀なのりいで
神、空に知ろしめす
なべて世は事もなし

という詩を口ずさみたくなるような平和な光景に心が和んだが、ふと、視線を北に伸びる線路の先に転じて、暗然とした気分に襲われた。

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僕の旅は、いわき駅で終わる訳ではない。
次に乗り換えるのは、14時28分発の常磐線下り電車673Mである。

平成23年3月11日の東日本大震災と、直後の福島第一原発事故に伴い、常磐線の広野駅-原ノ町駅と相馬駅-浜吉田駅の間はそれぞれ不通の状態が続いている。
後者は津波被害が主な原因だが、前者は原発事故の立ち入り制限地域に引っかかっているのだ。

不通区間の北端、南相馬市の原ノ町駅は今年の5月に訪れ、福島原発から28kmという至近距離の緊張感で胸が塞がれる思いだった。
唯一、救いに感じられたのは、すれ違った人々の表情が意外と明るいことであった。
http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11708926052.html
今度は不通区間の南端である広野駅を訪ねるために、出かけてきたのである。

下り列車が発着する3番線には、発車時刻が近づくと、三々五々と乗客が階段を降りてきた。
誰もが軽装の地元客らしい装いである。
ホームの方面別の案内板には、もともと「原ノ町・仙台方面」などと書かれていたのだろうと思うのだけど、テープが貼られて「広野方面」と表示されている。

発車時刻表を見ても、東京・水戸方面は、赤数字の特急も含めて1時間に2~4本の列車でどの時間帯も埋められているが、下り方面は、朝夕に2本運転されることもあるものの、ほとんどの時間帯が1時間に1本程度の列車しか運行されておらず、幹線とは思えない寂れ具合である。
午前8時台と10時台などは空欄である。

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発車の10分ほど前に、広野からの上り列車が到着し、十数人の乗客が降りて来た。
銀色の車体に青い帯が入った、常磐線東京口でも馴染みの415系電車が3両連結されている。

1両あたり10人にも満たない客を乗せて、折り返しの673Mは、定時にいわき駅を発車した。

市街地を抜けると、しばらくは広い田園地帯の中をのんびりと走る。
高速運転で鳴らした常磐線であるから、普通列車と言えども決して速度が遅い訳ではないだろうが、相馬と原ノ町の間を走る701系電車のポンポンと跳ねる暴れ馬のような走りっぷりではなく、揺れの少ない泰然とした乗り心地だった。
相馬と原ノ町を結ぶ線路は山あいを縫うように敷かれていたから、斜面に生える木々が櫛の歯を引くように目まぐるしい車窓だったが、こちらは広々とした平地だから、若干スピード感に乏しい。

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左手の奥には、阿武隈の山並みが悠然と連なっている。

刈り取られて土が剥き出しになった田圃がどこまでも続く素寒貧とした光景の中を、電車は黙々と走り続ける。
首相が広野町の米を試食したというニュースを目にしたことがあるから、稲作は続けているのだろうと思うけれど、原発事故で福島県の農業が大打撃を受けたことは想像に難くない。

「福島から出荷される農作物は、今では日本一安全と言えるかもしれませんよ。お米は全品放射線を検査しているし、その他の作物も全て抜き取り検査をやっていますから」

と断言する専門家もいるが、それでも、消費者にためらいが生じるのは、やむを得ないことではないかと思う。
それが原発事故なのだ、と僕は唇を噛みしめるしかないのだけれども、こうして実際に農耕地を目にすると、どうしても複雑な気持ちになる。

左手の山の中を、常磐自動車道の白亜の橋梁が真っ直ぐに伸びている。
常磐道も、例外なく通行止めが続いている。
ハイウェイを行き来していた、東京と福島県浜通りの街を結ぶ高速バスも、見通しが立たない運休のままなのである。

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列車は、草野、四ツ倉と小さな駅に丹念に停車していき、どこでも数人がポツポツと降りていく。
乗ってくる客はいない。

どの駅にも駅員が常駐し、隅々まで手入れが行き届いている。
駅員が笑顔で話しかけながらノートのようなものを差し出し、車掌が何やら書き込む、という作業が、どの駅でも繰り返された。
運行時刻や乗客数でもチェックしているのだろうか。

腕時計を何度も見ながら駅員が直立不動になり、ビシッと敬礼してホイッスルが吹き鳴らされれば、ガタン、と列車は動き出す。
聞こえるはずのない、運転手さんの「出発進行!」の声までが耳に響いてくるようである。
いつ終わるとも知れない災害により、運転本数も乗客数も少なくなってしまった鉄路だけれど、きちんと守り抜いてみせる、という鉄道員の心意気を感じさせる光景に、何となく目頭が熱くなった。

小高い丘の合間をすり抜け、太平洋に注ぎ込む幾すじもの川を轟々と渡っていくうちに、僕は再び海を見た。
いわき以南と何ら変わりのない、水平線の彼方まで果てしなく続く、波1つない海原。
大規模な護岸工事が進められている場所も多く、浜辺には白いブロックがぎっしりと並べられ、クレーンが何機もそそり立っている。

普段ならば海が見えると胸がときめくのだけれど、福島第一原発に近い海と考えれば、どうしても気分は沈みがちになる。
公式発表では放射能汚染は広がっておらず、首相は汚染はコントロールされていると太鼓判を押し、いわき市の海水浴場が今年の夏に営業を開始したというニュースも耳にしたのだけれど。

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今は山なか
今は浜
今は鉄橋渡るぞと
思う間もなくトンネルの
闇を通って広野原

唱歌「汽車」の歌詞そのままの光景が、車窓を過ぎていく。
それもそのはず、明治45年の「尋常小学唱歌」で初出されたこの歌は、作詞した大和田健樹氏が、常磐線開通の折りの久ノ浜と広野の間の景観を謳ったものと伝えられているのだから。

「広野原」は広い野原かと思い込んでいたけれど、広野の原っぱ、という意味だったのか、と思う。

久ノ浜駅、末続駅、そして定刻14時28分に到着した終点の広野駅は、彼方に松林が並ぶ海岸を背景にした、まさに「広野原」の真っ只中だった。

5駅24分間のミニ・トリップはあっけなく終わった。

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広野駅にも駅員さんがいて、Suicaで乗り越してきた若い女性客相手に、手慣れた様子で精算を行っている。
いわき以北は、SuicaやPasmoといったIC乗車券の利用可能範囲外だった。

列車の滞留時間は僅かに8分、14時36分にはいわきに向けて折り返してしまう。
次の電車は16時51分までない。

僕は駅を小走りに飛び出して、瀟洒な駅舎や、海と反対側にひっそりとたたずむ町並みをしっかりと目に焼き付けた。
原発事故がなければ、この駅に降り立つことなどなかっただろう。
まさに一期一会である。
一緒に乗ってきた乗客達の姿は既になく、客待ちをしているタクシーの運転手は、車内で微動だにしない。

福島第一原発から直線距離にして23.7kmという緊張感を、微塵も感じさせない静寂に包まれている、昼下がりの広野駅だった。

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駅の敷地内には「汽車」の歌碑がある。
広野町は、「とんぼのめがね」を作詞した額賀誠志氏がこの町で医師として勤めていたというゆかりから、童謡の里としても知られている。

とんぼのめがねは 水色めがね
青いお空を飛んだから 飛んだから

とんぼのめがねは ぴかぴかめがね
おてんとさまを見てたから 見てたから

とんぼのめがねは 赤いろめがね
夕焼雲を飛んだから 飛んだから

駅員さんから切符を購入して電車が待つホームに戻り、頭に浮かんだ懐かしいメロディを口ずさみながら、僕は駅から北へまっすぐに伸びる鉄路に目をやった。
赤く灯された信号が彼方で滲むように輝き、その向こうの路盤は緑色に染まっている。
雑草が生い繁っているのだろうか。

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この先にある失われた国土が戻ってくる日、この地域に住む人々の生活が元通りになる日は、いつになったらやって来るのだろう。

思いは、同じ常磐線の54.5km先に位置する原ノ町駅と何ら変わりはなかった。
収束の見通しが立たない災厄が今でも厳然と続いているという実感が、ひしひしと胸に迫ってくる。

でも──

帰りのいわき行き普通列車と、乗り継いだ上野行き特急「スーパーひたち」で揺られながら、思ったことがある。

「とんぼのめがね」は、昭和23年、額田氏が広野の町内を往診している最中に、子供たちがとんぼと戯れている情景を歌ったもので、戦後の混乱した中でも子供達には明るく育って貰いたいという願いをこめたと聞く。

『戦後日本の子どもたちは、楽しい夢をのせた歌を歌えなくなった。
子どもが、卑俗な流行歌を歌うのは、あたかも、煙草の吸いがらを拾ってのむのと同じような悲惨さを感じさせる。
私が久しぶりに、童謡を作ろうと発心したのも、そうした実情が余りにも濁りきった流れの中に置き忘れられている現状である。
しかし、私は子どもたちを信じ、日本民族の飛躍と将来とを堅く信ずる。
この子どもたちが、やがて大人になる頃には(中略)全人類が一丸となって愛情と信頼と平和の中に、画期的な文明を現出する時代が来るであろう。
その時に当って、若い日本民族が世界に大きな役割を果たすことを信じ、いささかなりとも今日、子どもたちの胸に、愛情の灯をつけておきたいのである』

という当時の額田氏の言葉は、僕らの国の現在にも、そっくり当てはまるのではないだろうか。

原ノ町駅と広野駅。

2つの望まざる終着駅を訪れた旅で目の当たりにしたのは、この地を見舞った災害の大きさと事態の深刻さだった。
取り返しがつかないことになってしまったと思う。
何とかしなければ、という焦燥感がつのる。

同時に、以前と変わらず四季折々の美しい表情を見せる山河と、原発事故で揺れる町に住みながらも、逞しく生活を立て直している人々の姿から、未来を信じる強さを教えてもらった気もするのだ。

それは、根拠のない楽観主義なのかも知れない。
原発事故がこれからどうなっていくのか、今の僕には想像もつかない。

しかし、旅を終えた今、パンドラの箱から最後に「希望」が飛び出したように、僕らの国がこの厳しい災厄を乗り越えて復興を遂げる日が必ず来ることを、信じていこうと思っている。


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