晩秋の北関東をめぐるバス旅~「北関東ライナー」前橋-宇都宮線と宇都宮-水戸線を乗り継いで~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成25年11月初旬の早朝6時45分に、閑散とした前橋駅前からバスに乗ったのは、僕1人だけだった。

黄色に染まった銀杏並木の向こうから発車間際に姿を現したのは、白地に金色のラインが入り、高速バスを運行する都市の名前をずらりとボディに羅列した日本中央バスである。
 

 

少し前に、成田空港行きリムジンバスが別の乗り場から出発していったが、そちらは、大きなトランクを抱えた外国人客が数名乗車していた。
だが、複数の高速バスの時刻が案内されているこちらの乗り場には、僕がバスを待つ十数分の間、誰も近づいては来なかったのである。

運転手さんは無表情に僕を見やっただけで、すぐに扉を閉めてバスを発車させた。

すいていることに慣れているような印象も受けたけれど、ここから乗ってくる客がいるとは思わなかったと内心驚いていないか、運転手さんの表情が少しばかり気になった。

大丈夫なのだろうか、この路線は、と少しく心配になってしまう。
乗り場の時刻表にも、同社の東海ライナー(前橋・高崎-静岡・名古屋)運休の張り紙がでかでかと張られており、僕が乗りこんだ宇都宮行きも、4月に4往復から2往復に減便となったらしく、一部の時刻がマジックで無造作に消されていたりするから、どうも気が滅入る。
 

 


 

バスから眺める街路は整然としていて、交通量も少なく、黄色く染まったイチョウの葉が鮮やかに目にしみた。
直角に交差する通りの先や、広々とした利根川を渡る橋の上からは、彼方にそびえる赤城の山々がなだらかな裾野を悠然と広げているのが見え、北関東の旅も捨てたもんじゃないと心が躍る。
 


 

これから、広大な関東平野の北辺を成す山ぎわ沿いに、前橋から宇都宮、そして水戸へ、延々と旅をしようと思っている。

 
このルートは、30年近く前の学生時代に、鉄道の乗りつぶしを目論んでたどったことがある。
高崎から前橋を経て小山に抜ける両毛線も、小山から水戸の南の友部へ至る水戸線も、坦々とした田園地帯と、こぢんまりした街や工場が繰り返し車窓に現れるだけで、退屈した記憶が断片的に残っている。
地元の方々には大切な鉄道であろうし、歴史も文化も古く由緒ある地域なのであるが、沿線に超有名観光地があるわけでもなく、あまりに渋すぎるのだ。
このルートを乗り通そうという意欲に駆られることは、おそらく、もうないだろうと思ったものだった。
現に、その後、両毛線に乗ったのは、東京から前橋・桐生・太田・足利・伊勢崎などへ向かう高速バス新路線の初乗りでそれぞれの起終点の駅から駅へ移動するためだけであり、水戸線に至っては1回も再訪していない。
 
ところが、平成20年以降に、順次、北関東自動車道が延伸し、この区間を高速バスが走り始めた。
平成20年に宇都宮-水戸線、平成22年2月に前橋-宇都宮線、そして同年4月には、全区間を走破する前橋-水戸線の3路線が登場し、いずれも「北関東ライナー」の愛称が付けられていた。
乗ってみたいな、と高速バスファンとしては当然思ったけれども、いかんせん、東京を要として広がる扇の縁を走るような、東京とは全く関係ない路線である。
僕にとって、ついでに乗りにいくような所用が持ち上がるような地域でもない。
 
東京に住んでいると、距離的にはそれほど離れていなくても、放射状に延びている鉄道やバス路線ばかりを利用してしまう。
首都圏の交通網がそのように発達しているのだから、鉄道でも両毛線や水戸線ばかりでなく、放射状の路線を横糸のように結ぶ八高線、横浜線、相模線、武蔵野線なども殆ど乗る機会がない。
 
紀行作家の宮脇俊三氏が国鉄全線完乗を果たした時に、1番最後に残っていたのは、両毛線から分岐する足尾線であった。
 
『足尾線は群馬県の桐生から北へ向かい、栃木県足尾町内の間藤を終点とする44.1キロのローカル線で、東京から近いわりには不便なところにある。
そういうところは案外行きにくいもので、1週間前に指定券を買って張り切るほどの魅力がない反面、急に思い立って午後から出かけるわけにもゆかない』
 
と言い訳しておられるが、僕にとっての「北関東ライナー」も全く同じ位置づけだった。
ちなみに、「北関東ライナー」は、どの路線も予約不要である。
 
平成20年頃、東武ワールドスクェアに自家用車で出かけた時、関東鉄道バスの水戸行きのバスを見かけたことがあったけれども、車を置いて自分だけ高速バスに乗る訳にもいかなかった。
 

 

そのうち、平成23年3月に「北関東ライナー」宇都宮-水戸線から関東鉄道バスは撤退してしまい、同時期の東日本大震災以降、「北関東ライナー」前橋-水戸線も運転を取りやめたままである。
こいつは、うかうかしていると乗り損なうぞ、と焦っていたのだが、開業後5年以上が経過した今回、ようやく、念願の機会に恵まれたのであった。
 
 
 
バスは赤城の山々を遠く右手に望みながら、目的地に背を向けるように県道12号線を西へ進み、n-パーキング日高、高崎バスセンター、高崎駅東口で乗車扱いをする。
 
この経路は、同じ日本中央バスの羽田空港や池袋・新宿から高崎・前橋を結ぶ高速バスなどでも通ったことがあり、懐かしい車窓である。
初めて通ったのは羽田空港からのリムジンバスが開業した平成10年だった。
当時は羽田から首都圏近郊の街々へリムジンバスが次々と開業し、品川区に住んでいた僕は、あの街にもバス路線が通じた、こんな地域にもバスで行けるようになった、と心を躍らせながら乗りに行ったものだった。
羽田空港の利用者はせいぜい都内か神奈川・千葉・埼玉の人々だろうと近視眼的に思いこんでいたもので、北関東に住む人々も羽田を利用するものなのかと蒙を開かれた思いがした。
あれから、もう十数年なのか、と思う。
月日の流れの容赦ない早さに粛然とする。
 

 

 
古びた家々や工場と田園が交互に現れるだけの、何の変哲もない県道ではあるが、のんびりと鄙びた車窓は、日常から解き放たれて異郷の地を旅している喜びをかき立てる。
 
n-パーキング日高は、刈り入れの終わった水田に囲まれたこぢんまりとした住宅地の中の駐車場だった。
おそらく自社営業なのであろう、高速バス利用者が車を置いておくこともできる。
このような施設やサービスは、クルマ社会の地方では欠かせない。
バスは駐車場の中でぐるりと転回したが、誰も乗る人はいなかった。
 
どこからか飛び出してきた誘導員のおじさんに導かれて国道に復帰し、広大な駐車場に囲まれた孤島のような全国チェーンの郊外型店舗や、黒ずんだ工場が増える中を、高崎市街へ入っていく。
 

高崎駅前の綺麗に手入れされた並木を眺めながら、この街に住む高校時代の同窓生の顔を、ふと思い浮かべた。
自営の社長さんとして、この厳しい世相にも負けずに頑張っている様子や、地域活動として駅前の生け垣の草取りや掃除などにも積極的に参加している様子がFacebookでもアップされていて、こちらまで励まされることが多い。
東京と故郷信州の行き来などで高崎を通ることは何度もあるのだが、どうしても高崎で下車してその友人と一献する時間がとれない。
信州に行くたびに、「なぜ途中下車せぬ?」などとFacebookに書き込んでくれるのを、申し訳なく思う。
今回も、故郷の帰り道にようやく1日を捻出して、こうして「北関東ライナー」に乗りに来ているのだが、友人のことを思い浮かべながらも通過せざるを得ない。
 
驚いたことに、駅から少し離れた高崎バスセンターでも、ロータリーに設けられた高崎駅東口乗り場でも、乗車してくる客は皆無だった。
東口では、1番隅っこの高速バス乗り場で数人の客がバスを待っていて、バスが横付けされると近づいてきたのだが、「宇都宮行きです」という運転手さんのアナウンスに、なあんだ、という苦笑いを浮かべて乗り場から離れてしまった。
池袋か羽田空港、もしくは新潟行きに乗るのだろう。
 


 

宇都宮まで、このバスは僕の貸し切りとなってしまうのだろうか、とちょっぴり不安になった。


乗り物は混雑しているよりは空いている方が望ましいが、運転手さん1人、乗客1人という状態は極端すぎて恐縮する。
この路線、不採算で長いことないのではないだろうか。
もし僕がこの旅に出てこなければ、運転手さんはもっと気楽に宇都宮までドライブ気分で過ごせたのではないだろうか。
運転手さんに何か話しかけて場を盛り上げた方がいいのではないか、などと、まるでタクシーに乗った時のように気を遣ってしまう。
 
昔、千葉から羽田空港へ向かうリムジンバスや、新宿から富士吉田へ向かう中央高速バスの最終便、または甲府から静岡へ向かう特急バスなどで、そのような羽目に遭ったことがあるが、いずれも運転手さんと大いに話しながら盛り上がって過ごしたものだった。
もう30年近く前のことだから時効と考えて白状するが、どの路線とは言えないけれど、禁煙の車内で、運転手さんと意気投合して2人して煙草をくゆらせたこともあり、愉快な思い出も少なくないのだが、この日の運転手さんは寡黙だった。
気が引けるならば、後方の席へ下がればいいのだろうけれど、せっかく車窓を満喫できる最前列左側の席を確保できたのだから、それももったいないと思うのである。
 
バスは後戻りするように市街地の東にある高崎ICから関越自動車道に駆け上がり、続く高崎JCTで北関東自動車道に分岐した。
間もなく駒形ICを降り、駐車場が併設されている停留所にわざわざ寄り道したけれども、そこでも乗車客はなく、宇都宮まで僕の貸し切りが確定してしまった。
 


 

この道は、僕にとって初体験である。

 
北関東道やJR両毛線は、ひたすら東西方向に延びているという思いこみがあった。
地図を見れば、鉄道は、高崎から前橋・伊勢崎にかけては利根川に沿ってを南東に向かい、伊勢崎から桐生へは左へ直角にカーブして北東へ、桐生から小山へは右に弧を描いて再び南東へと、市街地を忠実にたどって波線のようにジグザグに走っているのに対し、ハイウェイは、その波線を串刺しにするように真っ直ぐ東西を貫いている。
沿線の市街地は離れていて、「北関東ライナー」も、駒形以東は途中停留所に寄ることなく、ひた走るだけである。
 
どんよりと垂れ込めた雲の合間から地上に降り注ぐ陽の光が、窓から車内にも差し込んでくる。
ひたすら地平を走って建物に視界が遮られがちだった両毛線と異なり、盛り土の上を行くハイウェイの眺望は予想に反して素晴らしかった。
田園に点在する集落や工場群を彼方まで見通すことができるから、雄大な関東平野の広さを実感する。
左手には赤城、後方は榛名に連なる武骨な山並みが、雲に霞みながら見え隠れしている。
首都圏では有数の美しい車窓ではないだろうか。
お見逸れしました、と思う。
 

 

渡良瀬川を渡って栃木県に入ると、平坦だった車窓は一変し、緑に覆われた山肌がぐんぐんとハイウェイに迫ってきて、幾つものトンネルで足利の街の北側を迂回していく。

上野の国から下野の国へ、険しくはないけれども起伏に富んだ車窓の変化を楽しんでいるうちに、バスは、北関東道が東北自動車道に合流する岩舟JCTに差しかかった。
 
宇都宮は左手、東北道下り方面のはずであるが、「北関東ライナー」は右へぐいっと舵を切り、東京方面の上り線に乗ってしまう。
呆気にとられていると、バスは、10kmほど南下した佐野藤岡ICを出て、定刻8時26分、幾何学的な建物に取り囲まれた佐野新都市バスターミナルに立ち寄った。
 
ここは降車専用の停留所であり、当然、降りる客は誰もいない。
ひと言、僕に行き先を聞いてくれれば、佐野まで寄り道しなくても良かったのに、とも思ったけれど、路線バスである以上、利用客がいようといまいと、定まった経路を取らなくてはならないのだろう。
 

 


 

佐野は、僕にとって曽遊の地である。

 
平成18年の真夏に、僕は東武特急「りょうもう」で佐野までやってきて、ここが始発の日本中央バスの夜行高速バスに乗ったのである。
「シルクライナー」と名付けられたそのバスは、佐野・館林・太田・桐生・伊勢崎・前橋・高崎と栃木・群馬県内の主要都市で客を拾ってから関西を目指す長距離夜行便であったが、僕が乗った系統は関越道・上信越道・北陸道を経由して、富山と金沢に寄ってから大阪を目指すという、所要14時間にも及ぶ浮き世離れした路線だった。
 
佐野を20時10分に発車するのだが、当時の佐野新都市は馬鹿でかいスーパーがあるだけで、早く着きすぎた僕は時間つぶしに途方に暮れたものだった。
とっぷりと暮れたバス乗り場も、広大な空き地の隅っこに建つ、草むらに囲まれた虫だらけのプレハブだった。

 
7年ぶりの佐野新都市は、バスターミナルが整備され、隣りにプレミアムアウトレットも出来て面目を一新し、全く別の土地のようになっていた。
新宿・東京から頻繁に直行高速バスが行き来しているが、佐野始発の北陸回りの「シルクライナー」は廃止されて名古屋・奈良・京都経由便だけとなり、群馬から北陸への系統は東京・埼玉からの路線に統合された。
 
昔を懐かしむためだけに寄ったような佐野藤岡ICから、再び東北道に復帰し、「北関東ライナー」は今度こそ宇都宮に向けて速度を上げた。
 
大雑把な見方をするならば、前橋・高崎は関東平野の北西の、宇都宮・栃木は北の辺縁である。
実際、東京から放射状に高崎へ延びる関越道はひたすら平坦だけれども、東北道は館林を過ぎると起伏に富んだ山々の合間をすり抜けるようになる。
その代わり、トンネルは福島県内まで1つもない。
鹿沼ICで高速を降りて宇都宮市街に入っていくと、まるで山越えをして別の盆地に来たような気分にさせられてしまう。
 
鹿沼IC入口に8時56分。
砥上車庫に9時02分。
東武宇都宮駅西口に9時15分。
県庁前に9時16分。
 
まだ眠りから覚めきっていなかった前橋と高崎とは異なり、2時間半のバス旅でたどり着いた宇都宮の街は、人や車の行き来が多く賑わっていて、少しずつ運行が遅れたようである。
JR宇都宮駅前の路地を進み、駅と反対側の歩道にある停留所に到着したのは、定刻9時20分を少々過ぎていた。 
たった1人の降車客を降ろした「北関東ライナー」前橋ー宇都宮線は、呆気なく走り去っていった。
 

 


この街は何回か訪れたことがあり、駅前の古びた車庫の中に、「日光」と行き先表示を掲げていた旧型の路線バスが待機していた記憶が今でも鮮やかである。
杉並木の中をのんびりと走る車窓を心に描いて、乗ってみたい!と心から思ったから。
あれは、平成元年に、成田空港から宇都宮行きのリムジンバスに乗車した時だったと思う。
今でも駅前には年季の入った大きな車庫があるけれども、その時のものだろうか。

せっかく宇都宮までやって来たにもかかわらず、名物の餃子に舌鼓を打つ暇もなく、僕は旅を続けなければならない。
わずか10分の接続で、9時30分発の水戸行き「北関東ライナー」宇都宮-水戸線が発車するのだ。

 

 

 

バス停には行列が出来ており、かと言って大混雑というわけでもない程よい乗客数であり、少なくとも前橋からのバスより利用者が定着しているようで、内心ホッとしたものだった。

 

やって来たのは、カラフルな色彩の茨城交通バスだった。
この会社のバスには何回か乗車したことがある。
どんな古い車体でも、他の事業者のバスに比べてシートがすっぽりと腰を包む座り具合が大変心地よく、この日のバスもその感触に変わりがなかったから、嬉しくなった。 
 
宇都宮と水戸を結ぶバスは、高速道路開通以前にも、国鉄バスが「茂木線」もしくは「水都西線・東線」の路線名で昭和12年から運行していた歴史があるという。
昭和54年に廃止されたが、平成20年の北関東道開通で復活した「北関東ライナー」は、実は戦前からの伝統路線の進化なのである。

栃木県庁前と東武宇都宮駅前までは来た道の逆戻りだったが、その先、バスは国道123号線で東へ向かう。
かつての一般道経由の宇都宮-水戸直通バスは、この国道123号線を走っていたという。
混雑する窮屈な市街地を、宇都宮大学前、宇都宮大学工学部前とたどり、国道4号線バイパスへ右折すると、視界が開けた。
 
鬼怒川の西岸を南下して、サーカスのテントが立つインターパークが、宇都宮側の最後の乗車停留所である。
インターパークは、宇都宮市と上三川町にまたがる北関東最大の郊外型商業施設集積地区で、ショッピングプラザや専門店街が建ち並んでいるのが、バスからも伺うことができる。
 


 

すぐ南側に高架のハイウェイが見え、バスは上三川ICから北関東自動車道へ入って速度を上げた。

 
北関東道は高崎JCTで関越道から分岐し、岩舟JCTで東北道に合流して、いったん途切れるが、10キロほど北に位置する栃木都賀JCTで東北道から東へ向けて、段違いのように北関東道が分岐する。
上三川ICは栃木都賀JCTから東へ2つ目のインターだから、僕にとって栃木都賀JCT-上三川ICの間が未乗ということになってしまう。
 
別に全ての高速道路の完乗を目指しているわけではないから、別に構わないのだけれど、実は10年ほど前に東野バスの東京発茂木行きの高速バスに乗って、東北道から、当時部分開業だった北関東道に乗り入れて、上三川ICで降りたことがある。
当時は上三川ICが終点だったかもしれない。
茂木行きの高速バスは、午前中に茂木から東京へ、午後に東京から茂木へ、という1往復だけだったから、上三川ICでちょうど日が暮れた。
夕焼けに染まった鬼怒川の河川敷と、行き交う車がほとんど見えなかった寂しいハイウェイの記憶が、今でも脳裏に思い浮かぶ。
 

 

 


 

その先の真岡、桜川は平板な地形であったが、筑西ICを過ぎ、小山からの水戸線と交差する頃になると、こんもりとした山々が車窓を占め、ところどころでトンネルをくぐるようになった。

関東平野と言っても、どん詰まりまで来れば、起伏に富んだ地形になるのだな、と思う。
笠間市の南のゴルフ場だらけの丘陵地帯を回り込み、前方から右手の遙か彼方に筑波山の流麗な姿が垣間見えるようになれば、早くも友部JCTで常磐道に合流である。
 
関越・東北・常磐道の3つのハイウェイを横に紡いで走ってきたわけであるが、関越道と東北道の間隔よりも、東北道と常磐道の方が遙かに近いことに気づいた。
前橋ー宇都宮間は、高崎を回ったとは言え2時間35分、宇都宮ー水戸間は1時間48分である。
 


 

人の流動、ひいては高速バスの乗客数も、その距離に比例するのだろうか。
僅か2往復に凋落した前橋-宇都宮線に比して、宇都宮-水戸線は1日6往復である。
地域性もあるのかもしれない。
群馬県は日本でも有数の自家用車保有地域であり、逆に路線バスは人口比にして最も少ないと聞いたことがある。

東京と水戸の間は、1日数十往復の高速バスが行き来して混雑しているが、東京と高崎・前橋の間には、日本中央バスが頑張って1日6往復の高速バスを走らせて、僕も時々見かけることがあるが、可哀想なくらいに空いている。
宇都宮にも、東京へ直行する高速バスが運行されていたのだが、平成22年に途中の佐野止まりになったので、実は群馬県より情けない状況である。
平行する新幹線の有無も関係するのだろうか。

一方で、駅前や市街地を行き交う路線バスの数も水戸が圧倒的に多いのだが、宇都宮も決して少なくないような気がする。
あくまで僕の印象ではあるものの、道や駅前で見かけるバスの数は、前橋と高崎が明らかに少ないように感じた。
どの地域でも路線バスは乗客数の減少に苦しんでいるが、群馬県では特に、バスが定着しにくい土壌があるのだろうか。

水戸ICから市街地へと東に向かうルートは、水戸発着の他の高速バスでも通ったことがある、通い慣れた道だった。
大塚・双葉台団地入口・大塚東・赤塚駅北口・石川三丁目とこまめに降車停留所がアナウンスされる。

 

 
この道が国道50号線だということに、この日、初めて気づいた。
国道50号線と言えば、以前に、東北道の館林ICから足利・桐生方面へ、東京から足利へ向かう高速バス「足利わたらせ」号やマイカー、バイクで走ったことがある。
バイクの時は、足尾から日光方面へ抜けようと1人ツーリングを目論んでいたのだが、館林ICを降りて国道を走り始めると、轟々と走るトラックばかりが目立って景色に何の面白みも感じなかったことと、暑い夏の日差しが相まって音を上げてしまい、途中で引き返したという、僕にとって屈辱の道なのである。
 
栃木県東部から群馬方面の道、という印象が強かったその国道が、水戸の方まで続いているとは知らなかった。
国道50号線の起点は前橋市本町1丁目。
終点は水戸市三の丸1丁目。
北関東道とともに、国道50号線も、北関東の北縁を半周する幹線だったのである。
 
ところが、バスはいきなり左折した。
このような道を高速バスが走っていいものか、とびっくりするような、住宅地の中の狭い路地に入り込んで、行き違いに苦労しながら、国道118号線に出ると、茨城大学前・上水戸入口と降車停留所をめぐり、再び狭い路地を縫って、国道50号線に戻ったのである。
来るときも宇都宮大学を経由したが、栃木・茨城相互の地域に進学する学生が多いのであろうか。
このような回りくどい経路でなければ、車窓から偕楽園を見ることもできたはずなのだが。
 
大工町・泉町一丁目・南町二丁目と進むに従って沿道が賑やかさを増し、繁華街の銀杏坂を下れば、突き当たりが水戸駅である。
バスは駅前のバス乗り場に入らない。
この先、勝田・海浜公園が終点であるから、のんびりとロータリーに入り込んでいる暇などないのであろう。
 
ペデストリアン・デッキに隠れた駅舎を右手に見ながら左折し、水戸城址へ向けてのきつい上り坂の途中にある北口三の丸ホテル前に到着したのは、11時18分、定刻であった。 
国道50号線の終点が、奇しくも、前橋から水戸までの2つの「北関東ライナー」を乗り継ぐ旅のゴールだった。
変化に富んだ楽しい車窓を存分に楽しめた、晩秋の4時間半だった。

平成26年3月に「北関東ライナー」前橋-宇都宮線が運休してしまったので、今は、関東平野の北縁を半周するバス旅は出来なくなってしまった。
 

 


 

*補記
この旅が、行きは東京から前橋まで来て、帰りも水戸から東京へ戻れば、きれいな扇形を描く度になったのでしょうが、僕は、前橋までは前夜に長野からやってきて(→ブログ「寝台特急「あけぼの」との邂逅」)、水戸からは常磐線で福島原発の近くまで行ったのです (→ブログ「常磐線不通区間の末端・広野駅を訪ねて」)。
宜しければ、御一緒にお読み下さい。
 

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