原発事故に揺れる街へ~ドリームふくしま・横浜号と福島-相馬特急バス、相馬-東京直通高速バス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

横浜駅東口バスターミナルを前夜の23時10分、東京駅八重洲口を23時59分に発車したJRバス東北の夜行高速バス「ドリームふくしま・横浜」号は、定刻より10分ばかり早い午前6時に福島駅東口に到着した。



黒々とそびえ立つ駅舎の大部分は商業施設のようで、明かりが漏れているのは、片隅にある改札口とコンビニエンスストアだけである。

連休の真っ最中だけあって、「ドリームふくしま・横浜」号のこの日の編成は、横3列シートの車両が2台、横4列シートの車両1台の合計3台だった。
郡山駅までは一緒だったのだが、その後、離れ離れになったようで、僕が乗って来た2号車以外のバスは姿が見えない。

平成18年10月に「ドリームふくしま・横浜」号が開業した時には、新幹線で2時間足らず、昼行高速バスでも5時間ほどの区間で、夜行を利用する人など存在するのだろうかと訝しんだものだった。
しかし、先に横浜を発車していった仙台行き「ドリーム仙台・横浜」号が2台運行、盛岡行き夜行バスが1台の運行だったことを思えば、首都圏から福島までを夜に移動する需要が意外と多いことに驚かされたのである。







2号車に横浜から乗車したのは10人足らずであった。

右側の窓際席に腰を落ち着けた僕は、中央列をはさんだ左側の席にいる朴訥そうなおっさんが、こちらにチラチラと視線を向けてくるのが気になってしょうがない。
僕が顔を向けると、すっと目をそらす。
気にしていてもしょうがないので、寝支度を整えることにする。

靴を脱ぎ、前席の下部にあるフットレストに足を乗せてみたが、座席の間隔が短いから、膝を曲げた窮屈な姿勢になってしまう。
29人乗りのバスの構造は小柄な人間向けだと、いつも感じる。
やむを得ず、備え付けのスリッパを履いて床に足を投げ出すことにする。

リクライニングのレバーを探しているうちに、携帯電源用のソケットがシートに備わっていることに気づいて、大いに安心した。
夜行バスをからめた旅行では、どうしてもスマホの電池が不足気味になるからだ。

これで、一夜を過ごす準備は万端である。



相変わらず、向かいのおっさんは僕の方を盗み見ている様子だったが、構わず後席に声をかけてリクライニングを浅めに倒し、備え付けの毛布をかぶった。
個室カーテンを閉めながら様子を窺うと、おっさんは僕の一挙手一投足を観察して、その通りに真似していることが判明したから、思わず窓に顔を背けて笑いを噛み殺した。
夜行バスは初めてだったのだろう。

「明朝の到着予定時刻の御案内は、東京駅を発車してからとさせていただきます。消灯も、東京駅を出てからに致します」

という運転手さんのアナウンスを口実に、少しばかり窓のカーテンをめくり、横浜から東京までの首都高速の夜景を楽しむことにした。

後席には若いカップルが並んで座り、しばらくヒソヒソ話をしていたが、多摩川を渡って羽田空港の煌びやかな夜景が見えてくる頃には、2人とも背もたれを倒して寝入っていた。
カップルだから当然であろうが、2人の座席の間を仕切るカーテンは開けられたままになっている。
カーテンは、座席の背もたれを立てた位置から前方に引くように吊されているから、後席の人もきちんと閉めてくれないと、リクライニングを倒した時にこちらの顔がはみ出して、照明が直に顔に当たる。

困ったな、と思ったが、後に消灯となって車内全体が真っ暗になれば解決する問題であった。







日付が変わる直前の東京駅八重洲口バスターミナルで、どっと乗客が乗り込んできて、ほぼ満席になった。
僕の前に座った若い女性が、

「あの、席を倒してもいいですか」

と福島弁らしい訛りで断りを入れてくる。

「どうぞ」

と鷹揚に頷くと、おそるおそる背もたれが倒れてきた。

ぐっすりと眠ってひと晩が過ぎ、未明の4時30分過ぎに到着した郡山で、瞼をこじ開けるように照明が灯された。
車内がざわめいて、乗客の2/3程度が真っ暗な駅前に降りていく。

中央列の客が前後していなくなったことを見計らって、前席の女性が席を移り、いっぱいにリクライニングを倒して、再び眠りを貪り始めた。
気を遣ってくれていたのだろう。
福島駅前でバスが停車してからも、彼女はなかなか目を覚まさず、毛布にくるまったままだった。

その向こうで、例のおっさんが、丁寧に毛布を畳んでいる。
いい人じゃないかと思いながら、今度は、僕の方が慌てて、放り出していた毛布を畳む羽目になった。





福島駅前を覆っていた夜の帳が、徐々に取り払われていく。
ロータリーにあるバスターミナルから、6時30分発の相馬行き特急バスと仙台行き高速バスが、それぞれ十数人の乗客を乗せて発車していった。

続いて、「原町駅前」と行先表示を掲げた6時35分発の特急バスが、駅前通りから猛烈な勢いで構内に進入してきたけれども、ステップを上がったのは僕1人だった。

「お願いします」

と挨拶しても、マスクをはめた運転手さんは素っ気なく頷いただけである。



まだ眠りから覚めきらない市街地を抜け、特急バスは国道4号線から国道114号線へ右折した。
盛りを過ぎて黒っぽくなった紅葉の阿武隈山地が近づいてくる。
わたり病院前バス停を過ぎると、道はみるみる上り坂になり、渡利トンネルで福島盆地に別れを告げる。

山々の襞を縫うように緩やかなカーブが続く国道を、運転手さんの滑らかなハンドルさばきで右に左に揺られているうちに、正面の稜線の向こうから、太陽が顔を覗かせた。





阿武隈山地を横断するバスに乗ってみたいと思うようになったのは、小学生の頃である。
福島県の浜通りと中通りを結ぶバスの存在は、鉄道ファンになったばかりで、親が買ってきた時刻表を熱心に読むようになっていた僕の印象に残った。
原ノ町、という、どこか鄙びた名称の駅にも心を惹かれた。




幾つもの峠を九十九折りの山道とトンネルで越えると、川俣町である。
左手の山あいにひしめく、思いの外大きな町並みを見下ろしながら急坂を駆け下りると、バスは「南相馬 浪江」と書かれた標識に従い、鋭角の交差点を国道349号線に向けて左に舵を切った。

町外れにある福島交通川俣営業所で、数台の路線バスが羽を休めている構内に停車すると、運転手さんはエンジンを切り、

「ここで8分間停車します。トイレに行かれるのでしたら、営業所の中にありますから」

と、マスクをはずしながら初めて僕の方に向き直った。
小用を済ませ、バスで待っていると、運転手さんが戻って来るなり、

「ここで誰も乗って来なかったら、お客さんの貸切だぁ」

と破顔した。

「まあ、この連休で帰ってくる人は、昨日のうちに来ちゃうんだろうけどな。お客さんはお仕事?」
「いえ、あの、旅行みたいなもんです」

この路線が子供の頃から気になっていて、ようやく念願を果たしたんです、とは言いにくかった。



営業所を出て、県道12号線を東へ向かえば、あたりは一段と山深くなった。
舗装も荒れ気味で、乗用車とすれ違うだけでも運転手さんがアクセルを緩めるくらいの狭隘な道が続く。

カーブが絶えない勾配を登り詰めると、田畑や集落が点在する平地が広がり、高原の清冽な雰囲気が漂い始めた。

「飯舘」と書かれた標識が眼に入り、僕は思わず居住まいを正した。
この地名は、4年前に、何度も耳にしたことがあったからである。



平成23年3月11日14時46分18秒、マグニチュード9.0の東日本大震災が発生した。

地震そのものによる被害は軽微だったが、福島第一原子力発電所の事故が、この村に深刻な影響を及ぼすことになる。

政府は、当初、原発から20kmの円内だけを避難対象としていたが、 放射能汚染は均一に広がるのではないと判明するきっかけになったのが、原発から40kmも離れた飯舘村の汚染だった。
原発の北西方向に向けて、まるで煙突から煙がたなびくように飯舘村方面に伸びていった地図を、何度目にしたことであろうか。

震災から10日ほどが経過した3月23日、文部科学省は、飯舘村で採取した土壌から放射性ヨウ素が117万Bq/kg、セシウム137が16万3,000Bq/kg検出されたと発表した。
3月31日には、国際原子力機関が、飯舘村の土壌から200万Bq/m²のヨウ素131を検出したと発表している。
チェルノブイリ原発事故では、55万Bq/m²以上のセシウムが検出された地域を強制移住の対象としたが、京都大学原子炉実験所の発表によれば、飯舘村ではおよそ326万Bq/m²が検出されたという。



震災から1ヶ月後の4月11日、飯舘村・浪江町・葛尾村の全域と、川俣町と南相馬市の一部地域が、遅まきながら計画的避難区域に指定された。
避難対象は約3000世帯・1万人にも上る。
5月15日に避難が開始され、初日は飯舘村民および川俣町民の、乳幼児がいる18世帯、113人が福島市などへ移動した。
村民の約9割が避難を終えたのは、6月のことであった。

現在でも、飯舘村の土壌からは放射性物質の検出が続き、ほぼ全域に渡って放射線量が年間積算20mSvに達する「居住制限区域」となっている。
特に長泥地区は、年間積算50mSvに及ぶ「帰宅困難地区」であり、年間積算20mSv以下の「避難指示解除準備区域」は、八木沢・芦原・大倉・佐須・二枚橋・須萱といった一部村域に過ぎない。

古びた農家に、朝の優しい日差しが光を投げかけ、葉を落とした木立ちの彼方に裾を伸ばす山なみには、朝靄がたなびいている。
晩秋の飯舘村のたたずまいはのどかの一言に尽きるが、どの集落もひっそりと静まりかえり、人の姿を目にすることはなかった。

そのうちに、異様な光景が目につくようになった。

口紐をきつく結んだ黒い袋が、所々にぎっしりと集められている。
集積所は、最初はぽつり、ぽつりと道端に現れる程度だったが、村の中心部へと進むにつれて、その数を増していく。
僕は、思わず息を呑んだ。

これは、除染作業で集められた、汚染土を詰め込んだ袋ではないのか。

3ヶ月前に、水戸と仙台を結ぶ高速バスを利用した時のことが、不意に脳裏に浮かんだ。
サービスエリアの掲示板に記されていた、中間貯蔵施設へ輸送する汚染土壌を入れる大型土嚢袋とは、これだったのかと思う。

雑草が生い繁り、または泥沼のように荒れ果てて放置されている田畑や、山肌を覆う木々の根元などに、無数の土嚢袋が無造作に積まれている有様は、美しい自然の懐に抱かれた飯舘の風景には全くそぐわず、醜怪ですらある。
何台ものショベルカーがあちこちに置かれ、地面を掘り起こした跡が生々しい。



労の多い除染作業に黙々と携わる人々のことに、思いを馳せた。
気の遠くなるような作業であっても、飯舘の人々にとっては、再生への祈りをこめた第一歩なのだと考えれば、胸が張り裂けそうになる。

この光景こそ、百の議論にも増して、原発事故の本質を僕らに突きつけているような気がする。
これが原発事故なのだと、通りすがりの僕は、唇を噛みしめるしかない。

運転手さんは、無表情に前方を見つめてハンドルを握っているだけだから、その胸中を窺い知ることは難しい。
話したくても、この凄絶な光景を評する言葉など浮かばないのであるが。



折り重なる山裾を、1枚ずつ頁をめくるように越えて行けば、いつしか道幅が広がり、特急バスは阿武隈の峰々から浜通りに降り立った。
広々とした田園に、燦々と陽の光が降り注いでいる。
新田川のせせらぎを渡り、常磐自動車道の高架をくぐって街並みが建て込んでくると、南相馬市の原町区である。





平成18年に原町市と小高町、鹿島町が合併して誕生した南相馬市は、合併前の地名を区域名として残している。

特急バスは原ノ町駅を経由して鹿島区まで足を伸ばすが、僕は南相馬市役所前で下車した。
バス停には、「応急仮設住宅巡回バス」のポールも並んで立てられ、震災の爪痕が厳然と残されていることが伺える。

街路に面して建つ市役所には、「心ひとつに 世界に誇る 南相馬の再興を!」という垂れ幕とともに、「脱原発都市宣言」と大書された看板が掲げられていた。







僕は、スマホで地図を確認しながら、静まり返った通りを北へ歩いた。
散策するには気持ちのいい、整った街並みである。
道端には商店も軒を連ねているが、まだ時間が早いためであろうか、どれも間口を閉ざしている。
陽の光が溢れている街路を、落ち葉を巻き上げて木枯らしが吹き抜けていく。
容赦なく、冷気が衣服の中にしみ込んでくる。

この秋初めて、吐く息が白く染まるのを経験した。
東北に来ているんだなあ、と思う。





上流に阿武隈の山並みを映す新田川の支流を渡って、すぐの交差点を左に曲がれば、様々な福祉施設が入るサンライフ南相馬の敷地が左手に現れる。
くすんだ黄色に色づいた並木に隠れるように、次に乗るバスの停留所が置かれていた。

相馬・南相馬と東京を直結する新しい高速バスは、ここから出発する。

発車時間まで30分もあるが、周囲はひっそりした住宅ばかりで、時間を潰せる店などは見当たらない。
これから5時間を超えるバスの旅に出るのだから、飲み物くらいは手に入れておきたいのだけれど、自販機すらどこにもなかった。

どうして、こんなに何にもない場所に、原町区唯一の停留所を設置したのだろうと思う。

大きな鞄を引きずった初老の男性がゆっくりと歩いてきて、バス停の前で足を止めた。
僕と同様に、早く着きすぎた利用客であろうか。
手持ち無沙汰のまま当てもなく歩き回っていた僕は、家々の屋根の向こうにコンビニの看板が顔を出しているのを見つけて、そのまま足を伸ばした。

買い物を済ませてバス停に戻ると、先程とは打って変わって、どこから湧いて出たのかと驚くほどの人だかりである。
サンライフ南相馬の駐車場に車を止めて、見送りに来た家族連れも多い。



発車時刻の10分ほど前に、白い車体に桜の花びらが描かれたハイデッカーが姿を現した。

実直そうな運転手さんが改札を始め、荷物を預ける際の注意点などを懇切丁寧に1人1人の乗客に説明している様は、ひと昔前のツアーバスを彷彿とさせる光景であるが、これは時間がかかるぞ、と思った。

このバスは、午前8時に始発地の相馬市役所前を出発して、8時30分発の鹿島区役所前を経由し、サンライフ南相馬の発車時刻は8時55分である。
東京駅に近い鍛治屋橋駐車場には13時10分、終点の池袋サンシャインシティバスターミナルには13時50分に到着する、所要6時間近い長距離路線なのだから、乗車に少しくらい手間がかかっても貫禄のうちであろう。

相馬を午前8時、または原町駅を7時30分に発車する福島行きの特急バスから東北新幹線に乗り換えれば、午前11時頃には東京に着いてしまうから、所要時間では到底敵わない。
震災前には、常磐線の特急列車「スーパーひたち」が4時間で走っていたことを思い起こせば、忸怩たるものがある。

それでも、面倒な乗り継ぎが不要な直通バスは、それなりの需要をつかんでいるようで、頼もしい限りである。

何よりも、相馬や南相馬の人々にとって、4年ぶりに東京との直通交通機関が復活したという出来事は、喜ばしいことに違いない。

相馬と東京を結ぶ高速バスは、原ノ町と仙台や福島を結ぶ路線を運行していた原町旅行社(現東北アクセス)が、先鞭をつけてツアーバスを開業したことに始まる。
その後、いわきと東京の間を運行していた「いわき」号も、相馬まで延伸されたのだが、原発事故以降は、どちらも長期運休を余儀なくされている。

平成27年4月、福島県白河市に本社を置くさくら交通が、相馬・南相馬と東京・池袋を結ぶ定期路線の開設に名乗りを上げた。

平成27年4月2日付の毎日新聞の記事を抜粋する。

『相馬地方と東京都心を直結する高速バスが1日に運行を始め、始発便の起点となった相馬市の千客万来館前で出発式が行われた。
首都圏と相馬地方を直接結ぶ公共交通機関の運行は震災後初めてで、人の往来の活発化や経済活性化などに期待が集まる。
運行するのは桜交通。
当面は1日上下1本ずつだが、本数や運行時間帯は利用者の反応を見て柔軟に対応するという。
出発式では同社の小桜輝社長が、

「避難された家族の交流や地域活性化の一助になるように、との願いで運行を決定した」

と挨拶した。
最初の予約者の青田美津子さんは、東京都内に住む孫の成人祝いのために上京。
これまでは仙台市まで高速バスに乗り、新幹線に乗り換えていたため、

「直行するバスは本当に便利。値段も安いので、予約がいっぱいではないかと心配していた」

と話し、笑顔でバスに乗り込んだ』



改札を終えて、沢山の荷物を積みこんだトランクを閉めた運転手さんが、汗を拭いながら、見送りの人々に、乗りませんよね、と尋ねて回っている。
定刻に停留所を後にしたバスの、横4列・縦11列の座席は、ほぼ埋まっていた。

格安高速バスなどでスタンダードと呼ばれている、このタイプのシートに乗るのは初めてだったから、どれくらいの狭さなのだろうと気にかかっていた。
実際に腰を下ろしてみれば、座席の間の肘掛けがしっかりとしているから、独立シートが2つくっついて並んでいるような案配で、隣りの客をそれほど気にせずに済む。
決して広いとは言えないけれど、これならば、大して窮屈な思いをせずに過ごせるだろうと、胸をなで下ろした。



県道12号に入って、1時間ばかり前に来たばかりの道を戻るバスの車内で、僕は夢を見ているような心持ちだった。

相馬と東京を結ぶ高速バスが走り出したと聞いた時には、是が非でも乗りたくなった。
だが、相馬を午前8時に出る上り便と、池袋を午後16時10分に出て相馬に22時10分に着く下り便の1往復だけでは、東京に住む者としては実に使いづらい。
相馬に1泊するしか方法はないか、と半分諦めていた。

ところが、福島交通のHPに「東京滞在最大18時間!!」と題して、「ドリームふくしま・横浜」号と、福島-相馬・福島-南相馬の特急バスの乗り継ぎの案内が掲載され、さくら交通バスの発車に間に合うことを発見した時は、これだ!と膝を叩いたものだった。
東京からの連絡運輸を謳う交通機関が、東京行きのバスに間に合うよう配慮する訳はないから、全くの偶然に過ぎないけれど。

ちなみに、福島駅で見送った6時30分発の相馬行き特急バスでも、相馬市役所前には7時55分に着く。
東京行き高速バスに5分の差で間に合うタイミングだが、ちょっとした遅延でおじゃんになりかねない。

マニアだから初めての高速バスにはきちんと始発から乗りたいけれど、迷いに迷った挙げ句、乗り継ぎ時間に余裕がある南相馬経由を選んだ次第である。



バスは、南相馬ICから常磐道に入って速度を上げた。

高速道路は、平野の背後に連なる山中を貫いているから、見下ろす眺望はなかなか雄大である。
色褪せた木々が覆う山々の合間に、田園や集落が散らばっている様を広く見渡すことができる。
田畑の合間の草むらに、まるで羊の群れのように、白いすすきの群落が点在している。

対面通行区間が多いけれども、車の量が少ないから、流れは至って滑らかだった。





地元の人々に歓迎されて走り出した高速バスであるが、その内実は決して生やさしいものではない。

例えば、運転手さんの被曝量を最小限に抑えるため専属勤務にせず、営業所の全員で平均的に乗務する態勢を組んだり、窓の開かない車輌を投入して、サンライフ南相馬と四倉PAの間を内気循環に切り替えるなど、様々な対策が必要で、この地域で公共交通機関を運行することの困難さと異常さが浮かび上がってくる。

数ヶ月前に、以下のような記事を読んだことがあった。

『平成26年12月の常磐自動車道相馬-山元IC間の開通後、南相馬市と仙台市を1日4往復する高速バスの直行便は利用客が増え、1月は約3700人と2、3往復だった前年の約2.5倍になった。
だが、運行する東北アクセス は、全線開通で直結するいわき市方面の運行には慎重な姿勢を崩さない。
南相馬周辺は関東方面からの作業員も多く、いわき方面への潜在需要は高いとみられるが、遠藤竜太郎社長は「被爆が課題」と新路線開設に踏み切れない理由を説明する。

「事故時の乗客への対応はもちろん、何度も行き来する運転手への影響も無視できない」

最終開通区間の常磐富岡-浪江IC間(14.3キロ)は、福島第1原発事故の帰還困難区域を通り、常磐道の中で最も空間放射線量が高い。
空間線量は最高地点で毎時約5.5マイクロシーベルト。
短時間の通過による影響は限定的とされるが、住宅地であれば年間20ミリシーベルト以上の被爆が想定される値だ。
東北道と磐越道を経由し、1日8往復する高速バスのいわき-仙台線。
常磐道に乗れば40キロほど距離を短縮できるが、利用を計画していない。
利用客からは「近い方がいい」と常磐道ルートを支持する声の一方で、「線量が高い場所があるので遠回りでもいい」と不安も聞かれる。
同路線をジェイアールバス東北と共同運行する新常磐交通は、

「輸送の安全確保を検討している段階」

と説明。
当面、現行ルートで運行を続ける方針だ。
福島県内の常磐道は、福島第一原発がある大熊、双葉両町に建設される中間貯蔵施設への除染廃棄物の輸送ルートにもなる。
近く試験輸送が始まる予定だが、本格化すれば大型ダンプが1日1500台以上通行する見込みだ。
こうした状況から、旅行業界も全線開通を歓迎しつつも、企画商品の販売に二の足を踏む。
地元旅行会社の幹部は、

「現時点では常磐道を使う商品を販売しにくい。東北道を使うケースが多いだろう」

と話す。
東日本高速道路がかつて想定した常磐道常磐富岡-山元IC間の交通量は、1日5000~7000台。
昨年12月の2区間開通後の実績は1日2300~8000台と近似するが、避難者の利用や工事車両が多く、原発事故前と様相は異なる。

「東北の復興の起爆剤にしたい」

と、安倍晋三首相が全線開通を急がせた常磐道。
多方面に効果が表れ、被災地の再生を牽引できるかどうか。
道のりは平坦ではない』

このように厳しい状況でも、さくら交通は、福島県に本社を置く企業として、地域に住む人々や、遠隔地での避難生活を余儀なくされている人々、また復興支援に携わる人々の役に立ちたいと、この路線の開業を敢行したのである。
その心意気に、目頭が熱くなる。



常磐道の広野ICと南相馬ICの間には、各インターの間に3ヶ所ずつモニタリングポストが設置されている。
10分間の平均放射線量を道端の電光掲示板で表示し、NEXCOのHPにも一覧が掲載されている。

常磐道が開通した翌日、新聞の一面に「5.5μSv/時」の数値を掲示している写真が掲載されているのを見て、仰天したことを今でも覚えている。
時間によって増減はあるのだろうが、単純計算で、年間の積算が48mSvと「帰宅困難地域」に匹敵する放射線量ではないか。
原発周辺には、まだまだこのような高線量の場所が残っているのか、と目が覚めるような思いだった。

常磐道の除染作業は、環境省の直轄で、平成24年3月から7月までの先行事業として「常磐自動車道警戒区域内における除染モデル実証事業」が、同年12月3日から平成25年6月28日にかけて本格的な「常磐自動車道除染等工事」が実施された。
その結果、放射線量の低減率が19~55%という結果が確認され、環境省は、平成25年度内に開通を目指すとしていた広野ICと常磐富岡ICの間について「概ね当初の方針どおり線量を低減」できたとし、その他の区間も「一部で線量の高い区間があるものの一定程度低減」したと発表したのである。

同年10月に、同省がモニタリングカーによる走行サーベイを実施したところ、浪江ICと南相馬ICの間では平均0.6~0.7μSv/時、広野ICと常磐富岡ICの間で平均1.3~1.5μSv/時、常磐富岡ICと浪江ICの間で平均0.5~2.4μSv/時であった。
同省が常磐自動車道での除染方針の目標で挙げた3.8μSv/時以下(9.5μSv/時を超える線量の場合は概ね9.5μSv/時以下)を下回る数値なのだという。

この数字が、人体に安全と言える根拠を持っているのかどうか、僕にはわからない。

それでも、状況は変わりつつある。
最近になって、東北アクセスのHPに、次のような告知が掲載された。

『弊社では、常磐自動車道の全線開通後に於いてもお客様と従業員の健康に及ぼす影響が未知であるとのことから双葉地区を中心とする高放射線量区間(浪江IC~常磐富岡IC)へのバスの通過を見合わせておりました。
今回、弊社が独自に放射線量を測定し、また、あわせて第三者専門機関の協力によるデータの検証および従業員への説明により、運行が可能と判断し、当該区間へのバスの通過を決定いたしました。
南相馬市方面より「いわき・東京方面」へバスのご利用をご検討中のお客様は、常磐道をご利用されるのか福島市や二本松市等を経由して東北道をご利用頂くのかをお選び頂くようにいたしますので、バスをご依頼の際にご相談ください』

平成27年5月2日から6月1日までの31日間、常磐道の南相馬ICと常磐富岡ICの間を1日2往復しながら測定したという同社の調査結果が、併せて提示されている。
調査に際してエアコンは内気循環とし、窓は開放せず、測定器は地上より1mの車内に設置したという。

これによれば、この区間をバスで通過した場合の被曝量は、平均0.13μSv/時前後のようである。



今、僕が乗っているバスも内気循環中である。
40人以上が呼吸するバスの車内が外気と遮断されている状態を、僕は経験したことがないと思うのだが、別に息苦しくなったりするわけではない。

3~5kmごとに、道端に放射線量を示すモニタリングポストが置かれているのが見える。
南相馬ICを出たばかりの243.1kmポストでは0.2μSv/時、237.9kmポストでは0.3μSv/時、233.9kmポストでは0.9μSv/時、と数字が少しずつ増えていく様は、決して気分の良いものではなかった。





浪江ICを過ぎると、人家が高速道路の間際に建てられている箇所がある。
何の変哲もない平和な景色のように見えるのだが、僕の目は釘付けになった。
家々の窓からのぞく障子が、無残にも破れっぱなしだったからである。
庭の草も伸び放題で、駐められている乗用車が赤錆びている。

浪江と富岡の間で、常磐道は、帰宅困難地域を貫いている。
226.8kmポストでの空間線量は、4.3μSv/時まで上昇した。

このあたりが、福島第一原子力発電所に最も近い区間である。
直線距離にして、およそ3kmあまり。
彼方に目を凝らしてみても、なだらかな丘陵に遮られて、海岸に位置する原発を直接見ることはできない。
送電線の鉄塔が集まっている丘の向こう側に、原発があるのだろうか。

ここでも、汚染土が詰められた土嚢袋があちこちに集められている。

原発事故によって、僕らの国が、貴重な国土の一部を失ったという事実が、改めて胸に重くのしかかってくる光景だった。







222.6kmポストでの空間放射線量は2.14μSv/時、常磐富岡ICを過ぎた214.4kmポストでは1.87μSv/時と、数字が少しずつ減り始めた。

0.14μSv/時を示していた203.7km地点でのモニタリングポストから間もなく、広野ICの標識が窓外を過ぎ去っていった。
稜線の彼方に、青く太平洋が広がっている。
4年半前に、牙を剥いて陸地に襲いかかってきたとはとても想像できない、穏やかな海原だった。

一昨年の初夏に、僕は仙台から相馬へ向かう高速バスと、常磐線の暫定開業区間の電車を乗り継いで、原ノ町駅に降り立った(原発事故に揺れる街へ~常磐線不通区間を結ぶ仙台-相馬・原ノ町高速バス)。
同じ年の秋には、いわきから常磐線に揺られて広野駅を訪ねている(原発事故に揺れる街へ~常磐線不通区間の南端・広野駅を訪ねて~)。

それから2年を経て、当時は人が立ち入ることが許されなかった原ノ町と広野の間を、漸く通り抜けることができたことになる。

僕らの国が、失われた国土を取り戻しつつあるのだと考えていいのだろうか。





午前9時50分、バスは四倉PAに滑り込んだ。
バスの内気循環の区間も終わりを告げ、15分間の休憩である。
このバスにはトイレが付いていないから、きちんと済ませなければならない。

バスを降りた僕は、大きく深呼吸をして背伸びをした。
ひんやりと爽やかな空気が、緊張から解き放たれた身体を優しく包みこむ。



気が緩んだのであろうか、夜行明けの寝不足とも相まって、 そこからの道のりはうつらうつらしながら過ごした。

かつて板東平野とみちのくの境であった勿来の関の名を冠したインターで、いわき駅を10時に発ってきた「いわき」号と併走した時には、何となく人心地がついたような気分になった。
特別ではない高速バスが走る地域に戻ってきたのだと思った。

日立付近では、トンネルの合間に垣間見える海の眺望に心が和む。





坦々と広がる関東平野を快走しながら、

「この次の休憩は守谷SAの予定でしたが、時間が開き過ぎますので、手前の谷田部東にしたいと思います。その先、首都高速では渋滞が予想されますから、きちんとお手洗いをお済ませ下さい」

と、運転手さんが案内する。

谷田部東PAでは、日立発の高速バスと隣り合った。
肌寒さは変わらなかったが、何となく澱んだ空気からは、南相馬や四倉のような清々しさは最早感じられなかった。







広々とした利根川を渡り、続いて江戸川を越えると、常磐道は切り通しに潜り込み、建て込んだ市街地を抜けていく。
三郷料金所を通過して首都高速6号線に差し掛かれば、防音壁に視界が遮られて、どんよりとした曇り空を振り仰ぐだけの、退屈な時間が暫く続く。

それだけに、堀切JCTでいきなり展望が開けて、荒川の向こう岸に、スカイツリーをはじめとする東京の街並みが広がる車窓の演出は、劇的だった。





普段ならば、帰って来たな、とホッとするところであろうが、僕の心は重く沈んだままだった。

福島と南相馬を結ぶ特急バスや、相馬と東京を結ぶ高速バスの窓から目の当たりにした惨状は、繁栄するこの大都会から、僅か250kmしか離れていない地域の現状である。
取り返しがつかないことになってしまったと思う。
そこに、今も続く災厄をもたらしたのは、紛れもなく、僕らが住む街を支える電力を供給するために建設された原発なのだという罪悪感を、どうしても頭から拭い去ることができない。

彼の地の復興が1日も早く達成され、平穏を取り戻すことを、心から祈る。







箱崎JCTの渋滞で時間を費やし、首都高速都心環状線の宝町ランプから林立するビル街の谷間に降りたバスは、昭和通りのアンダーパスを次々とくぐり抜けて、新橋まで大きく回り道をしてから、鍛治屋橋駐車場に向かう。
駐車場が面している内堀通りの内回り車線に右折できる道路が、他にないのであろう。

鍛治屋橋では約10分の遅れが生じていたが、宝町から東池袋までの首都高速の流れは、予想外に順調だった。
昼下がりの人混みで溢れんばかりのサンシャインシティの外れで、ひっそりと静まり返ったバスターミナルに到着したのは、定刻通りの午後2時前であった。





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