致知出版『人間学入門』より  稲盛和夫「たまたま主役になっただけ」 | S blog  -えすぶろ-

S blog  -えすぶろ-

-人は年をとるから走るのをやめるのではない、走るのをやめるから年をとるのだ- 『BORN TO RUN』より
走りながら考える ランニング・読書のブログ

昨日に続き「人間学入門」の第2弾感想記事です。
 
昨日の人生の使命は封書に入っている という話しの
 
続きのような記事です。


 
稲盛和夫さんの1997年のインタビュー記事です。
 
稲盛さんは1959年、あるセラミック会社の技術者から
 
27歳で脱サラして京セラを創業、
 
1984年には第二電電(現KDDI)を創業した大経営者で、
 
私も大変尊敬しています。
 
そんな稲盛さんが自身の人生の受止め方、
 
人間の役割・使命についてこのように語られていて
 
大変感銘を受けました。 
 

 
 
私が開発したセラミック・パッケージという技術は、
 
現在世界中のコンピューターの心臓部に使われています。
 
これがなければ、現代のパソコンもコンピューターもなかった、
 
と言われるほど重要なものですが、
 
それをこの私がつくったのだという自負心が出て、
 
慢心しかけていた時でした。
 
その時にハッと気付いたのが、みな同じ人間であるはずなのに、
 
何故私だけが才能に恵まれたのだろうということでした。
 
そしてそれは、たまたま私がこの世に出てくるときに、
 
宇宙の創造主が才能を与えてくれただけであって、
 
何も稲盛和夫でなくてもよかったのだということに気付いたのです。
 
京セラも第二電電(現KDDI)も、
 
確かに現代と言う時代に必要だったと思います。
 
しかしその会社をつくるのは何も私である必要はなかった。
 
一億二千万という人がいる中で、私と同じ役割をする人がいれば、
 
その人がつくっても構わないわけです。
 
社会を一つのドラマと考えれば、
 
そこには主役を演ずる人も必要ですが、
 
入口で切符を売る人も必要です。 
 
裏では大道具小道具、主役のメイクをする人、
 
衣装を縫う人も必要です。
 
しだしの弁当を注文したり、みんなの世話をする人も必要です。
 
いろんな人がいて初めてドラマが構成されるわけですから、
 
私にはたまたま主役を演ずる役割が当っただけで、
 
もし別の人に当っていても、人生のドラマは構成できるはずだ、
 
と私は気がついたのです。
 
人生のドラマという作品をつくるために、
 
宇宙の創造主がそれぞれの人に、
 
それぞれの任務に相応しい才能を与えてくれて、
 
この世に出してくれたわけですから、
 
主役だからといって、それをあたかも自分だけの才能のように思い、
 
自分だけが利用してお金持ちになり、
 
栄耀栄華を極めていけばいいというものではない、
 
ということに気がついたのです。
 
そのことに気がついたお陰で、
 
二十七歳で会社をつくってから今日まで、
 
なんとかやってくることができたのだと思います。
 
もし私が自分自身を戒める謙虚さをなくし、
 
慢心をしていたら、今日の私は存在しなかっただろうと思います。
 

自分に対して、周囲の人たちに対して、

こういう悟りが根底にあってこその名経営なんだろうと
 
つくづく思いました。
 

このそれぞれの役割、ということで
 
最近知った聖書のこの言葉も想い出しました。


体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
わたしたちは、
体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、
見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 
(コリント人への第一の手紙12.14~26)