私が結婚する時に仲人をして頂いたのは
父方の親戚で
1964年に開催された
東京オリンピック
陸上400mリレーの日本代表でした
アジア初の東京オリンピック開催は
私が3歳の時
日本は355人の選手が参加し
29個のメダルを獲得
俺の叔父さん
オリンピック選手だったんだ
自慢げにそう話す
幼い頃の自分がいました
あれから57年
あそびスポーツ®︎ネットワーク「フィジカル運動教室」の指導者として
教室を共に運営しているのは
2000年
シドニーオリンピック代表候補
惜しくも
オリンピック出場は叶わなかったものの
トライアスロン日本代表として
アジア大会では二度の銅メダルを獲得した
大河原先生
私の経験した事のない
世界の夢舞台
これまで観てきたオリンピックを通して
今も心に残る
幾つもの思い出
それは
代表になった
メダルを獲得した
選手に対するものばかりではありません
1984年8月5日に開催された
ロサンゼルスオリンピック
女子マラソンに出場した
ガブリエラ・アンデルセン選手
極度の体調不良の中
フラフラになりながら
ゴールする姿には驚きと共に感動を与えられ
1992年
バルセロナオリンピック
男子マラソンの谷口浩美選手
レース中
後続選手にシューズの踵を踏まれ転倒し
脱げたシューズを履き直すアクシデント
結果8位入賞
ゴール後のインタビューでの言葉
「途中でこけちゃいました」
「これも運ですね。精一杯やりました」
苦笑いを浮かべ
こう答えた谷口選手
私と同世代の1960年生まれ
当時32歳の彼は
どんな想いだったのだろう
このブログを綴りながら
次々と浮かぶ
オリンピックの思い出の中
ずっと
忘れられない選手がいます
それは
1998年
長野オリンピック
ジャンプ競技で
テストジャンパーを務めた
高橋竜二選手
そうです
今話題の映画
「ヒノマルソール〜舞台裏の英雄たち〜」にも登場する
ジャンプ競技選手です
ただ
私が彼の事を知ったのは
もう20年以上前の事だったと思います
偶然
テレビで目にしたドキュメンタリー番組
生まれながら聴覚障がいを持つ彼が
ジャンプ競技と出会い
多くの人に支えられ
努力を積み重ね
長野オリンピックに
テストジャンパーとして出場するまでを追ったものでした
かなり前の記憶なので
思い込みの部分も多いと思いますが
その番組を観た時は
衝撃というか
感動というか
かなりのインパクトがありました
先ず
彼を支える指導者たちの姿
竜二君を幼い頃に指導した指導者が次の指導者に
その指導者が
更に上のレベルの指導者に
竜二君の
次の未来を引き継ぐ指導者
そんな
バトンを繋ぐような選手と指導者の関係性の在り方
彼に関わった指導者の方々が
ずっとその成長を見守り続ける姿
次に
高橋竜二選手の姿
海外遠征はじめ恵まれた練習環境で調整する選手がいる中
歯科技工士として働きながら
競技と向き合う彼
学生時代
ノートのページの端に小さく書かれた
将来の夢
「長野オリンピックの代表になりたい」
テレビに映し出された
そのページの上の片隅に綴られていた
その言葉を
鮮明に覚えています
「飛んでいる時だけは自由だから」
この言葉は
当時の番組でも聞いた気がして
長野オリンピックの最終選考会
最長距離を飛んだのは
高橋選手
それでも代表に選ばれる事はなく
テストジャンパーに指名された時の姿
多くの拍手の中
その顔に笑顔はなかった
私は
そう記憶しています
その番組を観て
道場に通う
高橋選手と同じく
生まれながら聴覚障がいを持つ道場生
後に
県の代表として国体、全日本選手権大会に出場し
聴覚障がい者の世界大会である
デフリンピックに出場し
金メダルを勝ち取った彼に高橋選手の事を聞いた時です
竜二先輩の事ですね
彼は私に
そう答えました
まるで
知っている事が当然のように
そう
彼らは既に繋がっていました
道場生が当時
高橋選手の事を
如何思っていたのか
はたして
自分の姿と照らし合わせたりする事があったのか
それは分かりません
ただ
改めて
オリンピックを想った時
誰かと誰かは繋がっていて
勇気だったり
励ましだったり
温もりだったり
希望だったり
夢
そして
未来を紡いで行く
それが
オリンピックの大切な役目
私は今
そう感じています