2024/04/27 京都新聞

 戦後80年を間近に控え戦争体験者が少なくなる中、次世代に戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えていくにはどうしたらよいか―。舞鶴引揚記念館(舞鶴市平)と満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)のそれぞれで活動するボランティア団体が引揚記念館で交流し、共通する悩みを語り合った。

 満蒙記念館は中国東北部の旧満州に子どもも含む約27万人が渡った歴史を伝える資料館。最も多くの人員を送り出したとされる長野県の飯田・下伊那地方から満蒙開拓の史実を伝えようと2013年に開館し、民間で運営されている。

 同館で活動するNPO法人「ピースLabo.(ラボ)」のメンバー9人と館の職員2人が、研修で引揚記念館を訪れ、NPO法人「舞鶴・引揚語りの会」の案内で展示を見学した後、意見を交換した。

 満蒙記念館は当事者の高齢化を受け、満蒙開拓の体験談を語る講演会を毎月2回から1回に減らした。「体験者の語りには力がある」といい、ピースラボのメンバーは今後いかにして戦争を伝えていくか頭を悩ませる。

 一方、シベリア抑留を中心に展示する引揚記念館では一足先に体験者がいない時代を迎えている。抑留は軍務に就いていた青壮年男性が中心だからだ。そんな中、舞鶴市が毎年実施する「語り部養成講座」の修了生でつくる引揚語りの会は、当事者を指すことが多い「語り部」をあえて自称して展示案内などを行っている。

 意見交換で、語り部呼称を使う理由を問われた引揚語りの会の勝島勝彦理事長(65)=舞鶴市白浜台=が「ただ単に展示を解説するだけでなく、実際に経験した人の話を聞いたり手記を読んだりしたことから学んだ抑留者の思いを伝承していくという意味で名乗っている」と力を込めて語ると、戦争体験の継承について議論が交わされた。自治体直営と民間主体の運営体制の違いやコロナによるボランティア組織の変容などについても活発に話し合われた。

 研修を企画したピースラボの松尾達二さん(58)=長野県松川町=は「体験者がいなくなる中でどうしていくかの手がかりが得られた」と振り返り、「今度は長野に来てもらうなど交流を重ねたい」と話した。(菅井渉太)
【写真説明】
引揚語りの会の会員(右側で資料を持つ男性)による展示解説を聞くピースラボのメンバーら=舞鶴市平・舞鶴引揚記念館
【写真説明】
意見交換する引揚語りの会(手前)とピースラボのメンバーら=舞鶴市平・舞鶴引揚記念館
 

2024/04/27 毎日新聞/長野
 満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)は25日、戦前の中国東北部に渡った満蒙開拓団について、在籍者数や死亡者数のデータを網羅した表をホームページで公開した。終戦前後の混乱などで全貌は不明。その解明に近付く取り組みで、前例が無いとみられる。多数の人に調査研究で活用してもらうことを期待し、不明なデータが残っているため情報提供も求めている。【去石信一】
 満蒙開拓は国策として進められ、全国の農家などから800団体27万人が日本から行ったと言われる。ただ、この団体数や人数さえ根拠が明らかではない。終戦直前、ソ連の侵攻で大混乱し、多数の犠牲者が出たほか、戦後に「残留孤児」や「残留婦人」の問題を残した。

 記念館によると、これまで最も信頼性が高いと考えられていた資料は、外務省が1950年に行った調査で、それに基づく概況が全国開拓自興会監修の「満州開拓史」に掲載されている。だが、帰国した開拓団幹部や資料保持者の行方が不明で、「約1割が調査未完了」としていた。

 記念館は10年近く前から、「満州開拓史」を基本に、各開拓団などが発行した記録集などでデータを補完してきた。軍隊の予備役を兼ねた「満蒙開拓青少年義勇隊」、食糧を増産する「満州報国農場」、入植男性との結婚を目的にした「開拓女塾」なども取り上げ、入植年月日、入植地、出身市町村、応召者数、帰国者数、未帰国者数なども記録した。公開日現在で1025団体を掲載。新たなデータを入手すれば、随時更新するという。

 記念館は満蒙開拓をテーマにした全国唯一の資料館。2013年に一般社団法人として開館した。親族らが所属した開拓団の情報を求める問い合わせが寄せられるが、中隊長名しか分からないなど情報が断片的なケースが多い。今回作成した一覧表は、表計算ソフト「エクセル」形式の電子ファイルで、検索がたやすく、消息を調べる助けになる。

 三沢亜紀事務局長は「記念館には満蒙開拓を後世に伝える責任がある。分からないことは多いが、基礎データとして一覧表を公開できたのは一つの成果」と話した。

■写真説明 満蒙開拓団の一覧表を説明する三沢亜紀事務局長=長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で
■写真説明 哈達河(ハタホ)開拓団の長野村で農作業をする人=満州東安省(現中国黒竜江省)で1937年5月撮影
 

2024/04/27 毎日新聞/福岡
小倉・鳥町食道街火災:
 ◇仲代達矢さんサポート
 1月に小倉北区の鳥町食道街一帯で起きた火災で被災した中国家庭料理店「露菜(ルーツァイ)」が、同区紺屋町で営業を再開した。店は北九州市を訪れる劇団関係者の憩いの場として知られ、店内には俳優、仲代達矢さんからのお祝いの花が飾られている。

 店は2006年に中国・大連市出身の楊(ヤン)露(ルー)さん(53)が始めた。水ギョーザやマーボー豆腐などの手作り料理と、世話好きな楊さんの人柄で人気を呼んだ。常連客に演劇鑑賞団体・北九州市民劇場の事務局長、民谷陽子さんがおり、劇団の公演時には俳優やスタッフでにぎわった。

 仲代さんは07年、主宰する無名塾の公演の際に初めて店を訪れた。楊さんの父で元大学教授の楊桂(グィ)棟(ドン)さん(88)は文化大革命時代に農村に「下放」され、一家は苦しい生活を余儀なくされた。仲代さんは中国残留孤児問題を描いた山崎豊子原作のNHKドラマ「大地の子」に出演しており、楊さんと意気投合したという。

 火災時、楊さんは病弱の父を見舞うために大連に帰省中だった。被災3日後に小倉に戻ると「常連さんたちのために」と早々に新しい店舗を決め、3月半ばに再開した。仲代さんからは炊飯器や食器類が段ボール箱に数箱分送られてきた。仲代さんの亡くなった妻で脚本家の隆(りゅう)巴(ともえ)さんが、塾生たちに食事を振る舞っていた時に用いていたもので、楊さんには大きな励ましになった。

 仲代さんからは「苦労を重ねた中国のご両親も新しいお店に来てくれるといいね」とのメッセージも届いた。仲代さんが大切にしていたオーストリア製の時計も店内で時を刻む。「お客さんによい時間を過ごしてほしい。そんな仲代さんの気持ちを大切にしていきたい」と楊さんは話す。【伊藤和人】〔北九州版〕
 写真説明 仲代さんから届いた祝い花を前に調理に精を出す楊さん
 

2024/04/26 信濃毎日新聞
 渡満を後悔し続けた被差別部落出身者 圧に流されず、道を選ばねば

 決意と緊張がない交ぜになったような視線がカメラに集まる。20日、小諸市で開いた県水平社の創立100周年記念集会(部落解放同盟県連合会主催)で、100年前の創立大会の集合写真がスクリーンに映し出された。その中に、17歳で参加していた高橋角市さん(1907~72年)がいるはずだが、どの人かは分からない。現小諸市の被差別部落で初の開拓団員として満州(現中国東北部)へ。戦後、そのことを悔やみ続けた。

 「角市さんや被差別部落の人たちに満州移民を強いたのは誰か。差別や偏見と闘わなかった社会ではないか」。記念集会の運営に加わった人権センターながの(長野市)の高橋典男さん(64)は問う。

 角市さんと満州との関わりを示す記録は地元にもほとんどない。現在の被差別部落の関係者にも知る人はいない。わずかに、元県短大教授の故青木孝寿(たかじゅ)さんが聞き取った証言が残っている。

 「部落の模範として行ってくれ」。角市さんは、同郷の先輩で県水平社幹部だった朝倉重吉から満州へ渡るよう頼まれた。生まれ育った被差別部落では、1940(昭和15)年から集団で満州へ移る計画があった。頼まれたのはそれより前。朝倉が、国などの力で部落の人たちの地位向上を目指す「融和運動」に追従しつつあったころだった。集団移民の地ならしとして、実績づくりを託されたのか。

 角市さんは貧しい農家の生まれ。小学校から先には進めなかった。「満州に行けば、徴兵もなく、ここよりはましな生活もできるのかな」。39年、北佐久郡町村会が送り出した小古洞(しょうこどう)蓼科郷(ごう)開拓団の一員として大陸に渡り、父と妻、5人の子どもと暮らした。

 だが、土地や家屋は事実上、現地の人たちから奪ったものだった。満州に差別のない暮らしを求めることは、郷里では差別解消への地道な取り組みを放棄することでもあった。開拓団は45年8月、旧ソ連の対日参戦や暴徒化した現地民の襲撃などで、200人余が集団自決。応召していた角市さんも父と子ども3人を失った。シベリアに抑留され、49年9月に引き揚げた。

 「安易だった」。角市さんが戦後、満州に渡ったことを悔やんでいたと、小諸市を拠点に被差別部落の歴史を長年調べてきた斎藤洋一さん(73)=山梨県中央市=は部落関係者から何度も聞いた。被害と加害のはざまで、ままならない人生を省みていた。研究会などに積極的に参加し、若い世代に「戦争は最大の人権侵害。二度と起こしてはならない」と訴えていたという。

 県水平社の創立100周年記念集会では100年間を振り返る動画が流された。水平社が戦時下、解散を求める圧力を国から受け、抵抗して自然消滅を選んだ歴史に触れた。就職活動中の学生のSNS(交流サイト)を企業が調査する動きを巡り、出自や思想信条による「就職差別につながる」といった懸念も出て、新たな形の人権侵害にも向き合っていくと確かめ合った。

 差別や偏見に対する社会の無関心が、満蒙開拓の悲劇や戦争を引き寄せたのだとしたら―。「どの時代でも、どの人間も、差別や偏見について自ら考えて、闘わないといけない」。動画を制作した高橋典男さんは思いを深める。

 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」。水平社宣言が高らかに読み上げられた。「大事なのは、外からの圧力に流されるのではなく、自ら選ぶことだ」。部落解放同盟県連合会書記長の中本栄さん(70)=長野市=は、歴史の教訓をかみしめる。
 

2024/04/25 長崎新聞 

 中国残留孤児の帰国に尽力した新上五島町出身の作詞家、柏実さん(84)=東京在住=の偉業をたたえる顕彰碑が同町若松郷の潮の香薫る公園の一角に建立された。21日、除幕式があり約40人が参加、柏さんも東京から駆けつけた。

 柏さんは、旧若松村神部で生まれて間もなく、両親、姉2人と満洲に渡り、終戦を迎えた。戦地に赴いた父の生死は不明、母は終戦の翌年死亡、現地で生まれた妹、弟とは生き別れに。引き揚げ後、若松中を卒業し上京。歌謡曲の作詞家となり数々の作品を世に送り出した。

 約50年前、残留孤児の肉親捜しをしている人に出会い、民間組織を設立。中国と日本両政府に働きかけ、現地調査活動も行い、多くの残留孤児の帰還に尽力した。自身が引き揚げ中に逃げ惑った記憶とともに、現地調査活動の記録も本にまとめた。

 柏さんの偉業を広く知ってもらおうと、若松郷の会社顧問、谷口稔さん(80)が「柏実」顕彰碑建立委員会を設立。代表として町内外から建立資金を募った。若松大橋そばに建てられた顕彰碑には「『旧満洲残留孤児引揚』功績者生誕の地」と刻まれ、柏さんの功績を記した碑文も掲示。谷口さんは「地元出身の偉人を未来に伝え続けることができる。町民だけでなく観光客など多くの人の目に留まるだろう」と話した。

 柏さんは「出身地に建立してもらい、この上ないうれしさ。戦争は反撃の繰り返し。歴史の本質を学べば争いはなくなると思う。考えるきっかけになれば、さらにうれしい」と言葉に力を込めた。(平田有子)
 

【写真説明】
顕彰碑の前に立つ柏さん(右)と谷口さん=新上五島町若松郷