再び取り上げてみます。
出雲葛西氏は武常の系統らしく阿宮の城平山に築城しています。康安元年(1361)に葛西肥前守多門が城内に祈願所を造営、奉行は三加茂兵部、加藤左馬尉とあります。
後の18代葛西小三郎兵部小輔正富は、永享11年(1439)上杉氏憲と足利持氏の戦いに足利方として阿吾郷から出て戦い武功があったが持氏は自害し、浪々の末に伊勢の北畠氏を頼ったとあり、
この時点で城平山城は脱け殻同然だった。そして正富の孫が再び阿宮へ帰って四千八百石を領している。その子兼正より兼冬さらに兼繁、兼倫と続き尼子氏に属したがやがて毛利に降っている。
子の兼延は江戸時代初期に麓に下りて屋敷を構えたとされます。毛利に降ってから城平山城は尼子勝久と山中鹿助の再興軍に備えて陣城として改修されています。
しかしながら出雲葛西氏の系図をお目にかけていないので、どのように本流から分かれているのかわかりません。今後何かがわかれば良いのですが。