この国の芸術を最悪のものにし、しかも、芸術とは呼べないものにしているのは、芸術家を自称しているにもかかわらず、国家権力におもねていることです。これはあるまじき姿勢であって、ほとんど致命的な欠陥なのです。芸術家精神を最も簡単な言い回しで表現するならば、「アナーキーなロマン派」ということになるでしょう。つまり、真っ当な人間としてこの世に在るためには、個人の自由をどこまで追求できるかという命題を背負って生きるかどうかに、芸術家としてのすべてがかかっているというわけです。これなくして芸術は成立しません。よしんば、ものした作品がかなり高度な出来であっても、国家のお墨付きに色目を使った途端に、そうではないものに、唾棄すべき下劣な代物に成り下がってしまいます。結局、芸術とは生き方そのもののことなのです。人間としての欠点や欠陥をごっそり背負いながらも、そうではない方向でなんとか生きようとするそのあがきこそが、芸術家を芸術家たらしめるための必要不可欠な要素であり、そこから飛び散る火花を表現することこそが芸術作品なのです。
 それがどうしたことでしょう。権力と権威が大好きな芸術家が大手を振ってまかり通っているこの国の大先生たちの神経たるや、いったいどうなっているのでしょうか。選考委員でまずはたらい回しにする文学賞のあれこれはまだしも、文化勲章や、人間国宝や、芸術院会員といった、国家が芸術の地位を権力の下に置きたがるためのお墨付きなんぞをありがたく頂戴し、それで事足れりとするような、あまりにも貧相な価値観にしがみついて離れない者が、どうして芸術家なのでしょうか。人生の狙いがそんな低俗なところであった者が、大芸術家面をするのを見るにつけ、情けない思いが募ります。
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 だからといって、文学が死んだわけではありません。死んだり、死にかけたりしているのは、文学関係者たちであって、文学そのものは依然として豊かな、ほとんど無限の可能性を秘めながら、大海原のように眼前にうねりながら、真っ当な書き手を待ちつづけながら、息づいているのです。それにしても、文学は近代文学の夜明けの頃から、すでにして死の道を辿っていたのかもしれません。なぜとならば、日本特有の、とそう言えばなんだか聞こえはいいのですが、実際には派閥好きで、家元精度式の集団を成すことで、既得権益を守りながら、仲間内全体で生き延びようとする、世俗的な悪知恵が横行し、それなしでは生きてゆかれないようにする、そこからはみ出した者は抹殺するといった、芸術の精神とは相反するあこぎな生きざまが蔓延り、その裏には強い者に従う、集団に頼るといった、反自立的な、一個の独立した存在者としての権利と自由をみずから放棄する、普通の人間としても最低の価値観である事大主義が大きく働いていて、いかんともしがたい状況をがちがちに固めてしまっているのです。
 ひっきょう、芸術にはこれほど不向きな国民性はないということなのです。言うまでもありませんが、芸術の精神の核となるものは、個人の自由にほかなりません。それをどこまで保ち、どこまで追求できるかという立ち位置を最初から最後まで確保できないような者に、また、生来そうした精神の持ち主でない者に、芸術の世界に首を突っこむ資格など皆無なのです。それがどうでしょう。実際には〈芸術家もどき〉がごっそり集まって、さもそれらしいことをしながら、ちゃんとした眼力の持ち主にそっぽを向かれるような、作品と呼ぶも恥ずかしい代物を世に送り出しつづけているのです。