しかし、それでもなお、そのレベルと圧倒する文学作品が登場しなかったことと、あるいは、登場したとしても、それが、ナルシシストたちが最も忌み嫌う、現実の臭いのせいで日の目を見る確率があまりに低かったせいで、いわゆる文学ファンの立場は辛うじて保たれつづけたのです。つまり、文学なるものを現実から逃避するための隠れ蓑として利用しながら、ちゃんと生きれば面白く、本当の人間らしさに行き着く可能性が高いというのに、一生涯をこそこそと、ちまちまと、〈逃げ生き〉ながら、手近なところにころがっている、ただの異性にすぎない相手を針小棒大に解釈して絶世の恋人と見なし、交尾に等しい行為を究極の大恋愛に仕立て上げ、だからこそ、自分の人生は無駄ではなかったかのような錯覚に酔い痴れることができたために、なんとかここまで持ちました。
 ところが、そうした安直な価値観にあぐらをかいているうちに、世間がどんな目で文学を見ようと、それは世間が通俗的だからで、真の芸術を理解できない輩が多過ぎるからだなどと、手前勝手な理屈をこね回して、ひたすら自己肯定にこれ努めてはみたものの、時代の発達というか、娯楽の進歩というか、映像文化の台頭と蔓延によって、それしきの作品では、つまり、文章を用いただけの価値のある芸術ではなかったために、たちまち圧倒され、その程度の代物でよければ動画のほうが上という当然の結論によって、出版界は売り上げの低下を差し招き、その流れをどうにかして元へ戻そうという意識は芽生えても、「文学は永遠なり」という思い上がった価値観からどうしても離れられないために、何をどうしていいのかさえわからぬまま、右往左往しながら、小手先の方策で乗り切ろうとするために、却って破局を早めることになり、もはや瀕死のありさまなのです。
 私のなかにある文学とは、たとえば「白鯨」であり、たとえば「ツァラツストラはかく語りき」であり、たとえば「徒然草」であって、その世界のなかにあふれているものは、まさに人間とは何か、この世とは何か、人間はこの世をどう生きるべきかという、究極のテーマが盛りこまれ、しかも、それにふさわしい、名画を生み出すための筆遣いや色遣いのように、きわめて高度な文章力が用いられているのです。ところが、文学は、印刷機の発明と発達によって、また、ほかにこれといった手近な娯楽が得られなかったため、大量生産大量販売の時代に突入し、早い話が一環千金も夢ではない、ぼろ儲けの可能性を秘めた、金の採掘にも似た、危ない商売へと変貌を遂げてゆき、結局は、悪貨は良貨を駆逐するように、悪書は良書を駆逐するようになり、芸術の道からはみるみる離れてしまい、それでも高収入という繁栄が、そのレベルの低さを補って余りあり、というか、潤沢な資金を背景に、そうしたものこそが文学であるという位置づけがなされ、実際には娯楽小説そのものでしかなかったにもかかわらず、あたかもそれが高度の文学作品であるかのごとき印象を授け、また、関係者一同も頭からその尺度を信じこみ、書き手も読み手も、おそろしく程度の低い、〈文学もどき〉とも言えない代物を、さも至高の芸術作品であるかのように扱い、恭しく押しいただき、全集という大仰な形でそれを応接間に飾ることで、おのれの知的レベルの高さを誇示したのです。ところが、そうした自己満足も長くはつづかず、しばらくすると馬脚を現すことになり、「こんなものは所詮、女や子どもが、さもなければ、女に近いタイプの男のおもちゃにすぎない」という、一人前のおとなの、普通の男による、当然の指摘にさらされるや、たちまちオタクの一部に成り下がったのです。
 親がかりの身である学生という立場ではなく、高卒の勤め人という社会的には圧殺されやすい立場から、つまり、ある程度、世の中の仕組みやら社会の矛盾やらを理解できる世間の片隅から、この文学の世界に入ってきた私としては、それまでさほど小説に関心があったわけではなく、むしろ蔑視の対象でさえあったために、勤め先が倒産の憂き目に遭ったせいで、急遽転職を余儀なくされ、思い余ってというか、ほとんど発作的に、元手をまったく必要としない自由業はこれしかないと決めて、いきなり小説なるものに手を染め、勤務中に、会社の原稿用紙と水性ボールペンを使って書き始めたのですが、既存の文学の垢にまみれていないことが幸いして、何をどう書いたらいいのかという、つまり、テーマは普遍的なものであって、しかも、安っぽい憧れいっぱい、夢いっぱいの恋愛などではなく、人間にとって最も基本となる重い主題を真正面に据え、文芸というからには言葉の芸術なのですから、それにふさわしい文章や文体を用意すべきだということは、最初からよくよくわかっていたのです。要するに、自分が酔い痴れたいためにペンを執るなどという、恥ずかしい限りのナルシシズムからは真逆のスタンスで、むしろ、そこにこそ手つかずの素晴らしい鉱脈が眠っていると直観していたからこそ、その気になったのでしょう。ところが、驚くべきことに、文学の世界へ足を踏み入れてみて、すぐに感じたのは、その大方が、というより、全体が、私が予想していた以上に、呆れ返るほどの無邪気で、無邪気な分だけ異様なナルシシズムに毒されていて、むしろ、それあしでは成立しないほどにまでの重症が蔓延していたのです。このありさまには愕然とし、こんな稚拙なものを文学と称しているのかと呆れ返り、自分のいる世界ではないとすぐに悟ったのです。