SSSS.GRIDMANとシン・ゴジラの相補性 | ムッシュ速報(Theムッシュビ♂ト公式ブログ)




※放映中(第9話放映後時点)に書きました。


2016年、ゴジラファンのみならず日本中席巻した傑作怪獣映画「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督)。僕も例に漏れず、熱狂の渦に巻き込まれ、「怪獣ものはシンゴジが最高傑作すぎるので、これ以上何が出てきてもハマれないのではないか... だって完璧すぎるもの!」とぼんやり思っていた。その2年後の2018年、僕は再び怪獣にハマることになるとは知らずに。


2017年、「電光超人グリッドマン」のリメイクが発表され、元々原作のファンだった僕だが、放送開始前は「まー、とりあえず始まったら見てみるか」という程度の認識だった。キービジュアルで「グリッドマンが街中に出てる?」とか「キャラデザかわいいけど、これでグリッドマンやるの?」とか諸々気になるところはあったのだが。


そして2018年10月、「とりあえず始まったら見てみるか」というくらいのモチベーションで実際に見てみたところ、


めちゃくちゃ面白い....


と、呆然としてしまった。


しかも、そこから回を増すごとに面白くなる。毎回最新話がベストエピソード。キャラかわいい(女の子だけでなくおっさんもかわいい)、ストーリーの謎気になる、演出良い、戦闘シーンかっこいい、後から見直すと更に発見がある、小ネタがマニアックすぎる、音楽かっこいい... 完璧じゃんこれ!と。


それから来る日も来る日もSSSS.GRIDMANのことで頭がいっぱい。まるで恋したかのように。


そんなある日、このハマり方、いつもその作品のことばかり考えちゃうこの感じ、既視感があるな!と、思い出したのがシン・ゴジラのときで、そこから冒頭の話に繋がるわけだが、そのときに「SSSS.GRIDMANとシン・ゴジラって繋がってるよね...」という考えに至った。作品世界の中とか設定の話ではなく、綺麗に裏表を成すかのような、お互いの足りないものを補完するかのような、そんな繋がりを。




対照性①「大人の世界と子どもの世界」

シン・ゴジラは大人の世界の話だ。基本的に政治家・官僚・公務員ばかりが登場し、市井の人々はモブとしてしか登場しない。これは庵野秀明監督が「怪獣が実際に現れた場合、対処の為に意思決定するのは政治家や官僚であり、民間人が主要登場人物になるのはリアリティを損なう」と判断した為だ。

それどころか、登場人物はプライベートすら見せない。全ての登場シーンが「仕事中」の場面であり、行動は職務と規律によって成り立っている。

対して、SSSS.GRIDMANは子どもの世界の話である。登場する大人は六花ママや担任教師程度。サムライ・キャリバーは33歳だと明らかになっているし、新世紀中学生も恐らく年齢的には大人だが、行動や言動はちゃんとした大人とは言い難い。六花ママに「君たちちゃんと働いてるの?」と聞かれて「働いたり働かなかったりです」と答えているくらいだ。その六花ママもノリは軽いし、担任教師も歩きスマホで生徒にぶつかるような人だ。

登場人物が「使命」に基づいて動く場面は多いが、規律どころか組織の存在すら曖昧。8話では内海が六花に「グリッドマン同盟って言ってるのあんただけだからね」とまで看破されている。


対照的だが、どちらにも通じるのは、大人と子ども、それぞれの「話し方のリズム感」を追求しているところだ。

シンゴジでは、官僚や政治家のやや早口で堅い喋り方が不思議にリズミカルに聞こえるし、SSSS.GRIDMANは現代の高校生っぽい軽妙な脚本が明るい(故に不穏な)テイストに繋がっている。




対照性②「兵器と怪獣のリアリティライン」

シン・ゴジラはストイックなまでにリアリティを追求した映画だ。とりわけ象徴的なのが兵器描写で、今までの怪獣映画では当たり前だった超兵器が全く登場しない。

自衛隊も米軍も殆ど存在する兵器ばかりだし(※ゴジラを貫通した地中貫通爆弾MOP2のみが実在する兵器「MOP」のアレンジ)、無人在来線爆弾もコンクリートポンプ車も実在する乗り物を使用したもの。つまりオーバーテクノロジーは全く出てこない。唯一、ゴジラに投与した血液凝固剤だけはオーバーテクノロジーかもしれないが、架空の生き物に対処するためのものなので仕方ないところだろう。

シン・ゴジラが革命的だったのは、これまでの怪獣映画だと殆ど雑魚扱いだった通常兵器について、運用も含めて徹底的にリアルに描写することで「通常兵器だってそもそも強い」という原点を思い出させたことだ。最初にタバ作戦で30mm機関砲が掃射されたとき、この程度では「ゴジラなら死なない」とわかっていても、「もしかしたら効くかもしれない」と思った方も多いのではないだろうか。

翻って、SSSS.GRIDMANには逆に「通常兵器」が全く出てこない。大型の剣「グリッドマンキャリバー」、装甲車「バトルトラクトマックス」、ドリル戦車「バスターボラー」、戦闘機「スカイヴィッター」... どれも、デザインは意識的におもちゃっぽく派手で、合体変形するだけでなく、変身する新世紀中学生のまま喋るくらいだ。ロボットが変形後の乗り物型の外見のまま喋るのはトランスフォーマーのようだし、駆動原理も謎。なぜ強いのかも明言されてない。そもそも新世紀中学生が何者なのか未だにちゃんと説明されてない。ヒーローと合体するし。

リアリティはほぼ放棄しているのだが、カッコ良ければ良いと言わんばかりの潔さだ。シン・ゴジラでは、普通のタンクローリーとかまで「かっこいい兵器」として見せたのとは対照的なカッコ良さがある。

怪獣のデザインについても、SSSS.GRIDMANの怪獣はどれもおもちゃ的な要素を持ち、「巨大生物が存在するとしたらどういう原理で動き存在するのか」を考えられる限り考えたシン・ゴジラとはこちらも対照的である。

しかし、「リアリティを放棄した」とは言え、怪獣は新条アカネがデザインしたものだし、(恐らく)この話自体コンピューターワールド上の話なのだから、「リアリティがなくても納得させる」舞台設定は最初から用意されていたのだ。



対照性③「怪獣のいる世界といない世界」

シン・ゴジラは、ゴジラシリーズに於いて初めて、1954年のファーストゴジラを「なかったことにした」ゴジラ映画だ。しかも、劇中の事件としてだけでなく、そもそもこの映画の世界には怪獣という概念がない。

庵野監督はシン・ゴジラの世界を「円谷英二が生まれなかった世界」と設定している。ゴジラどころかウルトラマンさえも存在してないので、この世界の民衆は巨大不明生物を見ても「怪獣だ!」とは言わない。そもそも知らないからだ。

これは、「リアリティを追求するために吐かれた唯一の嘘」と言えるだろう。現実の世界に怪獣が現れたとしたら、誰かが必ず、ゴジラやウルトラマンの話をする筈だ。しかし、庵野監督は怪獣という概念をなくすことで、モブキャラのメタ発言を封じた。巨大不明生物が現れる映画をリアルに描くために必要な「嘘」として。

反面、SSSS.GRIDMANの世界にはこれでもかとばかりに怪獣が登場する。主要登場人物に怪獣マニアと特撮マニアがいるのだから当然だが、劇中の生き物としてのみならず、アカネの部屋には無数のフィギュアが並び、特撮専門誌「宇宙船」が書店に並ぶ。会話にはバルタン星人だけでなく、(パワード)レッドキング、マジャバ、ゴブニュ、カオスジラーク... といった、随分マニアックな名前までも登場する。そもそも円谷プロ作品なだけに、怪獣のビジュアルも名前も出し放題。アカネだけでなく、内海も「それってウルトラシリーズでは定石」などのメタ発言も平気でしている。「怪獣」自体をミュートワードにしたシン・ゴジラとはこれも対照的だ。


もう一つ、「怪獣」の描き方で重要ポイントがあるのも指摘しておきたい。

シン・ゴジラは現れた目的が最後までわからなかった。そもそも目的という概念自体、生き物なのでわからなくて当たり前だ。何のために上陸し、何のために破壊するのか誰もわからない。

翻って、SSSS.GRIDMANの怪獣はアカネに使役されている為、目的は明確に持っている。「ムカつくクラスメイトを殺す」「グリッドマンを倒す」などだ。生き物としては不自然だが怪獣としてはごく自然な目的を持っているのだ。



今度は類似性に目を向けてみよう。




類似性①着ぐるみ・ミニチュア特撮への回帰

シン・ゴジラにもSSSS.GRIDMANにも共通する要素として、「フルCGで着ぐるみ怪獣を描いている」という点が挙げられる。

シン・ゴジラは、CGでゴジラを描くにあたって、現代のVFX映画では当たり前の筋肉シミュレーションを禁じた。ハリウッド映画のモンスターは、筋肉の動き、呼吸する様子などがリアルに描かれ、生きている生き物としてのリアリティを追求しているが、シン・ゴジラは硬質ゴムの質感で作られ、可動部が大きく制限されている。アップになるシーンでも呼吸するような描写はない。

また、第2形態はギニョールのような質感を持ち、登場シーンでのおぼつかない動きは自主特撮映画のテイストすら感じる。

SSSS.GRIDMANの怪獣も、プロポーションは基本的に人間が入る着ぐるみを意識している。グールギラスやデバダダンは少し足が短いし、バシャックの後ろ足は人が四つん這いで入っているかのように畳まれている。

また、特筆すべきは第3話でのアンチの演技で、「着ぐるみ怪獣が喋る場合、表情芝居ができないから大げさなアクションをしながら喋る」を忠実に再現している。

更に、第7話のUFOでは操演のピアノ線まで描写されていた。

また、シン・ゴジラもSSSS.GRIDMANもミニチュア特撮のテイストを多分に持っている。特に顕著なのは、「ミニカーのように飛ばされる車」の描写だ。第1話でシン・ゴジラを思い出した方も多いだろう。


類似性② 鷺巣詩郎氏の音楽。


どちらも、音楽を担当しているのは鷺巣詩郎氏だが、劇伴の使い方にも似通ったものを感じる。

まず、日常パートに於いて劇伴はかなり制限されており、劇伴が鳴らない場面が続く。シンゴジに於いては第2形態の蒲田上陸まで劇伴が全く鳴らなかった。

そして、要所要所では、鷺巣氏作曲ではない音楽に見せ場を譲るところだ。シン・ゴジラではゴジラ上陸シーンなどで伊福部昭氏作曲のゴジラのテーマに譲っているし、SSSS.GRIDMANに於いても、見せ場ではOxTによる主題歌「UNION」や「電光超人グリッドマン」主題歌「夢のヒーロー」のピアノアレンジなどが使われている。音楽の使い方が非常に丁寧なのも両作に通じる要素だろう。



類似性③ ウルトラマンを撮りたかった監督


庵野秀明監督はインディーズ時代、DAICON FILMとして自主制作映画「帰ってきたウルトラマン」を制作している。極めてクオリティの高い特撮映像でありながら、庵野監督本人が顔出しのまま演じるウルトラマンに、「あくまでこれはファンムービーである」という意思を感じる作品だ。

後に円谷プロによって許諾されてソフト化された為、公式作品として扱うこともあるが、勿論ウルトラシリーズとして大々的に扱われることはない。

その後、シン・ゴジラを撮ることになる庵野監督だが、ウルトラマンほど熱狂的にゴジラが好きだったわけではないことに注目したい。熱狂的でなかった、しかし、リスペクトしていたからこそ、ゴジラシリーズとの距離感が程よく、シン・ゴジラという傑作を生み出せたのかもしれない。


SSSS.GRIDMANの雨宮監督は、グリッドマンを題材にする前、「ウルトラマンのアニメ化」を円谷プロに打診していた。しかし、円谷プロに「ウルトラマンはNGだが、グリッドマンかアンドロメロスなら良い」と言われて、今作の制作に至った。


ウルトラマンを撮りたかったのに撮れていない。しかし、題材がウルトラマンじゃなかったからこそこの両作が傑作になったことは通じるものがあると思う。



まとめ


大好きな2つの作品をまとめて語った結果と言われればそれまでだが、どちらも日本の怪獣史のエポックとなる作品であると思う。

また、そもそもSSSS.GRIDMANは庵野監督の代表作であるエヴァが開花させた「セカイ系」の系譜であるが、「セカイ系としてのSSSS.GRIDMAN」が現時点では着地点を見せていないので、そこへの言及は割愛した。

この先どこへ向かうのか、楽しみにしつつ見守ろうと思う。