およるさま!
春の幕開けとともに世は末(マツ)に向かっています、今こそ気合い含めろ!
コロナックスバナナハイボール悪腫瘍が、地球星を揉み殺していますね。
未曾有の出来事、と使うには余りある未曾有っぷり、安静者も心配性者もかまわず席巻されていて本当に苦しい事態。
こんな時にブログを書くでもないのですが思うところ少なくないのです。
かといって多くありません。
まず一応お芝居の現状も書きますと、前回の通り仲間を集め散らす行動性そぞろに、ボクサー的な相棒ことふくちゃんが味方になりましたが、台本もようやっと形になりました。
世に出るお芝居のバージン作はこれにしたいなというところにきて、いま懊悩しています。
難しいのが私は、自分の好きなキャラクターや口癖などから抜け出せない傾向があり、お笑いの時も硬い檻の中にずっとおりました。
自分みたいな人が分身する気持ち、それで登場人物の素を何でも考えちゃう。
だもんで、相棒的メガネ似合い子(旦那ちゃんと相思相愛でかわいい)に台本を読んでもらったところ、読み口が赤の他人以上に赤の他人すぎて、もはや誰の口から出る言葉か分からないようになってしまいます。
彼女にいっぱいお芝居の喋り方を教えられない自分も悪いし、他人の口から出る前提で考えられないのも良くない。
「お前は1人で作ったものを1人でずっとやっていくのが1番、誰も傷つかないし無駄がない」と何度か言われることがありますが、本当にそうなのかも知れなくて。
でもそれはヤダヤダなんだよ。
ヤダヤダというか、もう、本当に。絶許というか本当にブーイングペケ字拳。
解散して少しピン芸人をやった時苦しかったのを思い出してはいつまでも、しょせん複数人業に想いを馳せるのですよ。
人の口から出る前提に世の中のセリフやジャパニ語も作られていて、独りよがりではないことなど承知なのだし、承知できていないかもチャンなことも承知。学びが足りない。ごめんねでした。
うーんどうしよう!
秋には何とかできたらと、秋、していきます。
としたところで、それはさて置き。
そうしたお芝居やお笑いの文化も無に帰すほどのコロナ〜ル三太夫、我々は瀬戸際にいるのではないでしょうか。
日本も死の街になってしまわない為に、全国民が体を強くし、休業できる人は死ぬ気で休業し、それ以外は死ぬ気で自粛し、静かに黙々耐え忍ぶ時です。
猶予などありません。
心配に思う、というか裏目に出たな、と言ってはたいへん異常ですが、ふと考えることがあります。
私は九州に母をおき、姉と兄こそ関東におりますが私自身は、1人で生きています。
物理的に言うと家人は1人です。
今回のコロナ姫の肝は感染という性質ですから人から人へ感染(うつ)ることに強い脅威があります。
そんな中でいて嫁や、お子がいる人は、自分自身が罹ることが何より恐ろしい。
お客や街ゆく他人にばら撒いてしまう事は必然ながら、命より大事な家族にもばら撒いてしまう悲しみ。
それはまったく想像する域にないものです。計り知れません。
我々みたいな独り身の無知やおろかさとは「自分で家族を持ったことがない」ことだと私は思うのですが、それが反面「大事なものを傷付けずに済んだ」ともなること。
大事なものをまだ手にもできてないかわりに傷付けずに済んだ。
未然に防いだ、と言えばポジティブというか呆れ太郎でしょう。
私は本当に心から安堵しています。
結婚やら出産やらの幸せを手にできず放蕩みたいな人生を過ごしていますが、初めて「良かった」と思ってしまいました。
家族を持ってしまったことが裏目に出、自分だけで食い止められた被害を大切なものに波及させてしまう。苦労して幸せを勝ち得た人々がそんな目に遭ってしまうこと、悲しさで所在がありません。
そして何より、彼らの気持ちに寄り添えない程度のおろかさである独り身の自分に責任さえも感じます。
本当に不甲斐ないぜ、パイロットのリュウばりの不甲斐なさが目に沁み、肩の力を奪い搔き立つ無力。
益々、個人のこと、集落のことだ東京のことだではいけません。
だから今こそ、フン詰まりのままでなく奮起して、世を渡り、人と手を携えて幸せになっていかなければとレブチューンモーター全開するのでした。
生きることも諦めず、幸せになることも9割諦めちゃいるがまだまだ腐らず足掻かないと。
そこらへんの世の幸せと自分の幸せを別個に考えている程度なら、まだまだチョロQかペタンクで遊んでようぜ!
今の私にできることは部屋でお笑いを狂い観、想いの熱い唄を聴くこと。
ちあきなおみの「朝陽のあたる家」を聴き涙袋から泣いています。
昭和の逞しい力・ゆとり世代の我々のハチャメチャ力・令和の子たちの激しい元気が集まり、日本も笑顔を取り戻しましょう。
約束ね。