家庭人失格の結婚生活《 自分史[46]》 | オカハセのブログ

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青森で結婚した辺りの自分史[36]からもう10個目の自分史になりました。この時期のは3回くらいで終わる予定だったのですが、書き始めると忘れてたことを沢山思い出すもので、こんな長くなってしまいました。次回の記事で結婚生活時期の自分史は終わらせて、その先に進みたいと思います。


九州から帰って来た僕は、里奈の運動会に間に合いました。
数ヶ月も九州を放浪していたことに関しては嫁さんにはそんなに強くは責められなかった。嫁さんはなんでも結構言う気の強い人でしたが、僕の家庭人としてはありえない行動はどこか「想定内」で見てるところがありました。
とにかく仕事が長続きしない僕のせいで嫁さんも仕事をせざるを得ませんでした。
いや…… 【嫁さんも】ではなく【嫁さんが】仕事をしていました。
「もうあんたサックスだけはちゃんとやってね」と。
娘の里奈と一緒にいる時間が長いせいか仲良しになったのはいいのですが、嫁さんのお母さんには顰蹙をかっていました(マスオさんのように、婿ではないけど嫁さんの実家にいました)。お母さんは僕のことを嫁さんが選んだ相手だからとあまり直接には言っては来なかったけど「仕事だけはちゃんとやって欲しい」と嫁さんには漏らしていたようです。
あたりまえですが…
たまに面接を受け仕事をしました。
ペンキ屋も2軒くらい行きました。どちらも2〜3ヶ月しか続きませんでした。
職場では今までと同じように自分の居場所が無い空気になりました。
近所に便利屋さんが出来てスタッフ募集していたので、面接に行きました。社長と面接をしました。
社長はスーパーマリオにそっくりなおっさんでした(笑)。僕はペンキ屋の経験があることから翌日には駆り出されました。
かなり働きやすい環境だったし日給8000円を1ヶ月後には9000円にアップしてくれたのに、何故か3〜4ヶ月しか続きませんでした。
引越しセンターも募集していたので行きましたがこちらは1日でクビになりました。理由は、この頃になると【前の学校でいじめられて転校してきた生徒のように仕事初日からオドオドしていた】と思うので、テンパり過ぎて指示された内容が殆ど入って来なくなり作業も覚えられず【使えない奴】とバカにされてクビになったのだと思います。

年は32歳頃になりました(ここから離婚するまではそう長くはない)。
サックスでの音楽活動は順調に進んではいた。メンバーも弘前大学のピアノとベースそして義足の年輩のドラマー、それは解散せずに3年くらい続いていた。僕の音楽遍歴の中では安定してユニットが続いていた時期でした。
けれど仕事のほうはやったりやらなかったりだった。
派遣会社がトヨタ自動車の岩手県の工場勤務を募集していたので面接を受けて採用されました。

僕のいつものメンバーで函館のライブが決まりました。うちのベーシストはもともと札幌出身で札幌のジャズメンとも交流があったため、彼のつてでうちらのバンドと札幌のバンドのツーマンライブをする事になったのです。
このライブが終わってから岩手のトヨタの工場に働きに行くことに決まっていました。

函館まではバンドメンバー4人と嫁さんの計5人で船で行きました。青函連絡船がまだ残っていたのか、或いは青函フェリーかは忘れました。
対バンの札幌のバンドはなかなか面白いメンバーでした。






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