新稀少堂日記 -937ページ目

第65回「四国八十八ヶ所 二十二番番札所 平等寺(びょうどうじ)」

 第65回は、「四国八十八ヶ所 二十二番番札所 平等寺(びょうどうじ)」です。太龍寺を出まして、坂を下り続けます。平等寺まで12kmの高低です。500mほどの標高差でしょうか。平等寺への到着時間で、それ以降の予定を決めることにしました。4時以降であれば、札所周辺の旅館・民宿に泊まり、早ければ距離を伸ばす方向で考えています。


 やがて、里に出ます。太龍寺から6kmほど歩いたところで、峠越えルートの遍路道に出ます。休憩所がありますので、一服していますと、お遍路さんがやってきます。先に失礼し、ゆるい登り道をたどります。曇り空ですので、二時過ぎの山道ですが、夕方かと思われるほどの暗さが感じられます。


 逆ルートを辿る20代の女性二人とすれ違います。いわゆる「逆打ち」です。今日で三人です。88番札所を逆に回るお遍路です。距離的には、あとわずかですので、よく頑張ったと思います。激励の言葉をかけ、更に道を続けます。


 あと1kmほどの所で、姉と妹と思われる小学生が歩いてきます。姉が幼い妹に視線を向け、何かの合図を目で送ります。「こんにちは」


 平等寺に着きましたのは、三時半です。参詣を終え、4時前に次の札所に向かいます。20km以上ありますので、できるだけ距離を伸ばし、6時頃にはチェックインしたいと考え、歩き続けます。5kmほどは遍路道です。そして、国道55線に出ます。高知市内まで続く、長い長い遍路ルートです。


 極めて信号の少ない国道です。制限スピードは50kmです。徳島自動車よりはるかに多い交通量です。どんどん追い越していきます。5kmほど国道を歩いた時には、6時を過ぎています。山道ですので、薄暗くなっています。現在の遍路道はこのルート55ですが、海岸線を通る「由岐回りルート」との分岐点にやってきます。かっての遍路道です。ルート55は、6kmほどショートカットできるコースです。


 宿泊・食事施設の看板が出ています。電話しますと、宿泊OKとのことです。このペースで歩くと8時頃の到着ですと伝えますと、迎えに来てくれるとのことです。言葉に甘え、着きましたのは、6時半です・・・・。一日が終わりました。

第64回「四国八十八ヶ所 二十一番札所 太龍寺(たいりゅうじ)」



 第64回は、「四国八十八ヶ所 二十一番札所 太龍寺(たいりゅうじ)」です。乗用車で寺院横にあります駐車場に乗り付けるか、麓に車を置いてロープウェイで登るか、遍路道を歩くか。ロープウェイは、標高差508m、全長2,775m、101人乗りとのことですので、大型に属すると思います。乗用車用の道路は、途中から上り専用、下り専用の一方通行になっています(下り道は、遍路道を兼ねています)。


 ロープウェイには乗ってみたい気もしますが、歩き遍路の主旨から逸脱しますので、あくまで遍路道を行きます。二十一番までは6.5kmです。最初の3kmほどは、ただひたすら下ります。やはり、膝に負担がかかっていますが、足をかばうほどではありません。慣れてきたのでしょうか。下り切りますと、県道に出ます。しばらく歩きますと、「ロープウェイ乗り場5km、遍路道3km」との表示のある分岐点に出ます。


 遍路道の入口は、長い橋が架かっています。下をのぞきますと、清流が流れています。すぐに登りとなりますが、最初の1.5kmは極めて緩やかな登りです。100mほど歩きまして、2m登る程度です。500mの標高差がありますので、逆に不気味です。やはり、きつい登りが出てきますが、登りにも慣れてきています。


 この20年ほど、一日平均タバコ60本、日本酒8合を飲んでいますので、焼山寺への道では息が上がったのですが、さほど息の乱れは感じません。ただ、汗でジャケットをぬらしています。森に立ち込める湿気のためでしょうか。九州地方に豪雨をもたらした梅雨前線の影響はありません。日中は、天気予報に反し、曇りか、傘を必要としない程度の小雨です。


 昼前に、太龍寺に着きました。自動車で回っている客数人が帰っていきます。ただ一人、ベンチで座ってタバコを吸っていますと、同じ旅館に宿泊していました女性の歩き遍路の方が境内に入ってきます。今回は、阿波の「一国参り」とのことです。わずかな会話の後、先に失礼し、二十二番札所に向かいます。

第63回「四国八十八ヶ所 二十番札所 鶴林寺(かくりんじ)」



 第63回は、「四国八十八ヶ所 二十番札所 鶴林寺(かくりんじ)」です。鶴林寺は、勝浦町にあります。勝浦町は、勝浦川に沿って長く展開しています。


 小学生が、見知らぬ人に言葉をかけることは、現在の世情を考えれば、慎むべきことかもしれません。ですが、それでは世の中がすさむばかりです。徳島県民の一つの選択は、老若を問わず、お遍路さんに声をかけることでしょうか。受ける側としては、非常に嬉しくもあり、励みにもなります。


 小学生は、登下校時に限って挨拶をするようです。昨日、数十人の小学生とすれ違いましたが、約七割の児童から挨拶がありました。それにしましても、世知辛い世の中になったと思います。


 6月20日(金)7時前、旅館を出発しました。旅館を出てすぐの角を曲がりますと、遍路道です。鶴林寺まで3kmですが、ジグザグ状に上っていく自動車の通れる舗装道路を、ほぼ直線で上っていく遍路道が何度か横切ります。遍路道は、コンクリートで舗装されています。約1mの幅で続いています。緩やかな勾配です。ですが、時々振り返りますと、次第に標高を増していくのが分ります。


 鶴林寺に近づくに連れ、さすがに道の勾配もきつくなり、階段状になっていきます。そして、「××丁」の表示されている苔むした小さな石柱を見かけます。一里塚のようなものでしょうか。ガイドブックでは、「丁石(ちょうせき)」とのことです(一丁は約30m)。十二番札所焼山寺(遍路殺しの道)で慣れたのか、比較的楽な気分でたどり着きました。山門には、鶴の彫り物があります。


 山号は、霊鷲山(りょうじゅさん)です。山号の名に決して負けない、風格のある山岳寺院です。独特の落ち着きがあります。山深いせいかと思います。二十一番札所への道は、境内の中にあります。本堂に続く階段を降りてすぐのところです。


 

第62回「四国八十八ヶ所 十九番札所 立江寺(たつえじ)」



 第62回は、「四国八十八ヶ所 十九番札所 立江寺(たつえじ)」です。「正」は、「ただしい」とも、「せい」とも、「しょう」とも読ませます。訓読みは日本語としての読みですが、音読みは中国語の発音を模したものです。古来から中国では、数々の方言がありました。同じ漢字でも、地方により発音が異なりました。


 故司馬遼太郎氏は、「街道をゆく」の中で、漢字の音の煩雑さについて、しばしば書かれています。奈良期に、音の一本化が検討されたようです。いわゆる漢音と呉音です。呉音とは、僧侶が主に仏教用語に使用したものですが、一般にも広く使われていました。漢音に統一しようとしたのですが、僧侶の猛反対で、改革案はつぶされたとのことです。


 こうして、現在まで、漢字の読みを難解にした事情は続いています。いまさら正月を「せいげつ」とも、正直を「せいちょく」とも読めません・・・・。 立江寺は、「りっこうじ」ではなく、「たつえじ」と読ませます。珍しい寺院です。


 境内は、落ち着いた佇(たたず)まいです。写真は、境内から山門を写したものです。見づらいかもしれませんが、犬がいます。非常におとなしい、可愛い犬です。境内に20分ほどいたのですが、最初にいた位置を動いていません。寺に居ついているのでしょうか、それとも、参拝客が飼い主でしょうか。かわいい犬です。


 犬に別れを告げ、二十番札所鶴山寺に向かいます。14kmありますが、3km手前の旅館に泊まります。残り3kmは、登りの山道です。更に二十一番札所への遍路道も山道です。4時半頃、旅館に入り休養につとめました。私を含めて客は4人ですが、全員歩き遍路です。

第61回「四国八十八ヶ所 十八番札所 恩山寺(おんざんじ)」



 第61回は、「四国八十八ヶ所 十八番札所 恩山寺(おんざんじ)」です。6月19日(木)早朝、前回中断しましたポイントへ、JRにて移動しました。3km程度で恩山寺に着くと考えていましたが、大誤算でした。分岐点を誤ったことと、3kmと思えた地図読みの誤りです。結局10kmほど歩く結果となりました・・・・。


 こういうこともあるかと思います。分割して回ると言うことには、気分の高揚と、体力(脚力)の持ち直しを必要とします。一挙に八十八ヶ所を回ることのメリットでしょうか(それ以上に、達成感が大きいと思います)。一方、一挙に回りますと、終わった段階で、全ての思い出が良かったと考えるか、全否定かの一方に傾斜するかと思います。個々の札所への思い出と、札所と札所をつなぐ遍路道、それが「歩き遍路」としての感慨ではないでしょうか。


 一挙に回りますと、ブログに書きます際、些事が全て消滅するように思えます。当初、最小のノート・パソコンを持参し、接続可能なホテルで、その都度入力することも考えましたが、四国の事情からしまして、それも不可能です。


 徒労感を若干感じながらも、無事恩山寺に着きました。着いてみますと、なぜ道を誤ったのか、不思議な感じがします。しかし、今日の予定は、二十番札所鶴山寺の3km手前の旅館ですので、急ぐ旅ではありません。気を取り直し、次の立江寺に向かいます。わずか5kmの距離です。


 なお、恩山寺の「恩」とは、両親への恩であり、感謝です。御詠歌より、「子を産めるその父母の恩山寺 訪らひ(おとない)がたきことはあらじ」 両親(特に父親)と子どもの絆が希薄に思えるような時代になりました。残念です。どちらの責任とも言えないように思えますが・・・。

第60回「《FREEDOM SEVEN》とコミュニケーション・ツール」(時事問題)

 第60回は、「《FREEDOM SEVEN》とコミュニケーション・ツール」(時事問題)です。、「FREEDOM SEVEN」につきましては、5月16日の日記に書いています。興味がありましたら、次のアドレスをクリックしてください。http://ameblo.jp/s-kishodo/entry-10097237036.html


 前回、日記を書きました時の媒体は、ヤフーのフリー動画サービスでした。当然パソコンで観ています。写真は、DVDのジャケットを撮ったものです。当然モニターは、薄型テレビです。迫力が随分異なります。大音量・大画面です。御近所に迷惑をかけない昼間に見ました。


 かってマクルーハンと言う社会学者がいました。独自のメディア論を構築しました。「メディアはメッセージだ」というような、過激なメディア論を展開しました。日本でも、大ブレークしました。私には、クール・メディア、ホット・メディアの分類には意味の無いことと思われましたが、今でもメディア論とか、コミュニケーション・ツールを考える時、避けて通れない巨大な存在です。


 「メディアはメッセージだ」との意味は、人間がメディアからいかなるメッセージを得るのではなく、メディアそのものが人間を規定するという決定論にあります。当時には、インターネットもモバイル(携帯電話)もありませんでした。マクルーハンは、テレビの社会に及ぼす影響を中心に論述しました。


 彼の基本的なスタンスは、コミュニケーション・ツールにも当てはまります。人間がケータイを使うのではなく、ケータイが使用する人間を規定する。インターネットも同じです。最近の事件で、加害者・被害者のケータイでの通信内容が多く報道されています。ケータイでの掲示板・プロフ・ブログなどです。ケータイの特性からしまして、ほとんど「ワン・フレーズ」です。極端に短い文章が、一つの記事を構成しています。


 それが極端な発言を生みます。マスコミの指摘する匿名性よりも、このワン・フレーズに特徴があります。では、パソコンでのブログは、  ????   私を含めて多くの人は、受忍限度(我慢して読める最大の文章量)である情報量は、A1用紙にして一枚程度のの内容ではないでしょうか。


 「黒澤明監督作品である「七人の侍」における黒澤演出について、A1用紙15枚以内で論述せよ」の課題で書かれた小論文を、私ならパソコンで読む気はありません。それぞれ、適したツールがあります。ケータイ・メールとか、ケータイの掲示板には、それなりの良さがあります。しかし、それはワン・フレーズとなります。自己の想いとか、自己がどうして、こう考えるかのプロセスを伝えるには、適したツールとはいえません。


 マクルーハンの「メディア論」は、決して死んでいません。


(6月23日 お詫び) アドレスに間違いがありました、申し訳ありません。なお、本日修正いたしました。併せて、文章の明らかな誤りを修正しています。



 

第59回「広重『東海道五十三次』の秘密」(ミステリー的絵画論)



 第59回は、「広重『東海道五十三次』の秘密」(ミステリー的絵画論)です。著者は、對中如雲氏です。江戸絵画・西洋絵画の比較研究が専門の方です。


 テーマは、広重の五十三次には、元絵があったと言う内容です。。元絵とは、司馬江漢の油彩肉筆であるとの主張です。広島の旧家から新発見だそうです。五十五枚の絵のうち、五十二枚はほぼ同じ構成をとっています。宿場の構図も、アングルも、登場人物もほぼ同じです。当然江漢は江漢らしく、広重はあくまで広重です。しかし、ほとんど同じ絵です・・・・。


 反論は簡単です。広重の五十三次が出版された後、司馬江漢の絵として、五十三次を贋作したと・・・・。作者は、反論します。贋作するのであれば、なぜ江漢の有名な作品を模したものを書かないのか。反論は、紙質、絵の具、花押、筆跡などにも及びます。


 しかし、對中氏の主張の面白さは、次の点にあります。「BがAをコピーしたのであれば、Aでしか書けないパーツがあるはずだ」 つまり、広重が江漢をコピーしたのであれば、広重のコピーに、描いた対象の不自然さ、曖昧さがあるはずだ。彼は五十二枚の絵を検証していきます・・・・。各五十五枚が、全てカラーで掲載されています。


 真贋は読者の判断次第ですが、對中氏の主張には十分共感できます。しかし、作者も書かれていますように、広重、江漢、いずれの五十三次も大傑作です。そして、鑑定の現況にも触れています。一旦贋作と鑑定されますと、その作品の行く末は無残です。


 この本は、現在廃版です。1995年の出版ですが、販売当時から、重版はないと思われましたので、即購入した本です・・・。ミステリー・ファンにも十分楽しめる内容です。「AがBである」との証明とは、いかに困難な作業であるかを明示しています。

第58回「三人乗り自転車と、アレルギー疾患と、孟母三遷」

 第58回は、「三人乗り自転車と、アレルギー疾患と、孟母三遷」です。孟子の一家は、墓の近くに住んでいました。幼い孟子は、葬式ごっこをして遊びます。孟子の母は、これは良くないと考え、市場の近くに越します。今度は、市場に近いところです。「安いよ、安いよ」、商売人ごっこです。再度、孟子の母は引っ越します。学校の近くです。孟子は、勉強を始めます。


 三人乗り自転車の禁止について、「子を持つ母親」は猛反対しました。賢い母親は、子どもの成長に合わせ、三遷すべきです。子どもが幼児の段階は、幼稚園とスーパーに、共に近いところに住めば良い話です。


 首都圏での私立学校へのシフトが始まって随分経ちます。しかし、地方都市では、優良な私立学校の無いところが多いかと思います。学校区により、小中学校は決まってしまいます。賢い母親は、就学に合わせ、住まいを変えます。


 そして、子どものアレルギー疾患の原因は、はっきりしています。小児ぜん息・アトピーにつきましては、ダニが原因だと言うことは、定説になっています。そして、花粉症につきましても、・・・・。孟母不在の時代かもしれません。しかし、孟母のしたことは、凄いことなのでしょうか。故事としては、実に平凡極まりないことです。


 では、父親は三遷しなくても良いのでしょうか。人間誰しも老います。揮発油税(ガソリン税)の暫定税率問題で、「地方には道路が必要だ」との主張が多く語られました。地方では、高齢化率が高いのです。そういう人たちに、いつまでも運転させているのです。当然老人が、幼児をひき殺す事態も増えています。


 私自身、視野につきましては、かなり狭くなっています。チェックは簡単に出来ます。老人ドライバーの良識につきましては、自己チェックの方法を知っているか聞いてみれば、すぐに分ります。


 孟父も、三遷すべきなのです。難しいことではありません。やがて来る老いを見つめれば、「終の棲家(ついのすみか)」を早い段階(50歳くらいまでに)で、考えるべきです。地方でも必ずしも自動車を必要としない環境が少なくありません。そして、動体視力の低下、視野の狭窄は、老人の必然です。


 そして、段差の多い戸建ては、若い人向きです。バリア・フリーを考えれば、必然的にマンションとなります。少しでも、周囲の人々を見ましたら、自分の10年後・20年後は分ります。実に醜悪ですが、自分だけ免れるという訳にはいきません。


 周囲の老人たちが、どういう環境で住んでいるかを見れば、その老人の来し方・行く末だけでなく、資質とか、考えの深さが見えてきます。

第57回「四国八十八ヶ所 十七番札所 井戸寺(いどじ)」



 第57回は、「四国八十八ヶ所 十七番札所 井戸寺(いどじ)」です。十三番札所からの「五ヶ所まいり」のラストです。歩いてきた距離は、約10kmです。自動車で回られる方が、いにしえの巡礼に想いを馳せるには、ピッタリのコースかと思います。一番から五番札所までの距離もほぼ同じ13kmですので、一部なりと「歩き遍路」で行かれますと、優しい気分になれます。


 弘法大師には、数々の伝説があります。仮名四十七文字を一度だけ使い、意味のある歌とした「いろは歌」の作者に擬せられているのも、その一つでしょうか。「いろはにほへと・・・」  「色は匂へど 散りぬるを わか世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越ゑて 浅き夢みし 酔ゐもせす」。作者が誰かを別にしまして、凄い歌です。


 そして、巨大アース・フィル・ダムである満濃池を造ったとの伝承。最澄さえ嫉妬させたと言われる「真言密教」の体系・・・・。数々の伝説・伝承に彩られています。井戸寺の名称の由来も、空海が一夜にして、杖一本で井戸を掘ったとの伝承によります・・・・。


 朝六時半過ぎから、延々と歩いてきました。長い一日でした。疲れています。十八番札所までは約20kmです。本日は、徳島駅前のホテルに泊まる予定です。遍路道とは異なりますが、次の札所へのルートとして、駅を目指して歩き始めます。

 

 チェックインして、足の状況をチェックしますと、右膝が左膝より若干大きくなっています。腫(は)れているようです。左足の裏にも、小さなマメもできています。一挙に回る遍路旅でしたら、翌日半日は休養日にしたと思います。


 6月10日(火)午前、ゆっくりしたペースで歩いています。十八番札所まで、あと3kmのところで、今回は終了です。次回は、ここから再出発します。6月18日(水)前後の出発を予定しています。


 

第56回「四国八十八ヶ所 十六番札所 観音寺(かんおんじ)」



 第56回は、「四国八十八ヶ所 十六番札所 観音寺(かんおんじ)」です。香川県に観音寺という市があります(当然、寺を発祥とした地名です)。観音は、「かんのん」と読ませず、「かんおん」と読みます。この寺も、「かんおんじ」です。


 境内で目立つのが鐘楼ですが、「子泣き地蔵」が有名だそうです。当然夜泣きする赤ちゃんの母親がお参りするのですが、寝つきの悪い老人たちも参拝する愉快な地蔵です。


 般若心経は、観世音菩薩(観音)が舎利子(仏弟子)に説教する形をとっています。そういう意味で、読経にも力が入ります・・・。


 自動車利用のお遍路さんが何組か来ています。次の十七番札所までは、4kmほどです。早朝からの徒歩のため、膝だけでなく、足全体に疲労感が出ています・・・・。