生きる力を与えればいい
【生きる力を与えればいいのだ】と思った。* * * * * * * * *私がこれまで見たり聞いたりしてきた「病」のヒーリングの、多くの場合はただ誰かに癒やしてもらうのではなく自分自身でも取り組んだことで快癒するケースが多かった。例外はたくさんあると思うが自己の取り組みが鍵なのだと思う。改めて癒しのプロセスって一体なんだろう?もう一度、『存在の第七層』を読む。「美徳」とサイキックの関係。たった数秒でいいから自分自身を“その状態”にさえすれば…そしてその場所で癒しを委ねることができたなら…。しかし、肉体を持った命はいずれはなくなるものだ。死にゆく人の前で、私は無力で、何もできなくて慰めなんておかしい。笑うことなんておかしいのかもしれない。。………などと、この数日考えていた。でも今日になってふと、「問題」を「解決」するなんて全くおこがましいのかもなと思った。「問題」にフォーカスし行動していくことは学びや成長に繋がるのだけれど、だからと言って、すべての問題を挙げればきりがなく、多様な価値観のなかで何を問題とするか?を考えるだけで、それだけで時間が経ってしまう。問題の定義も曖昧で、解決とは何かも曖昧で、いつ 誰が どうやって?なんてそんなの、重い。重すぎてつぶれそうになる。だからといって無視するのかというとそういう選択はしたくなくて。結局どうしたらいいかわからなかったから自分のこと以外は、放置するしかなくなって心はどこか窮屈だった。世界にいる、素晴らしい人たちのことを考えてみた。これまでに出会った人や、テレビで見た人、作品に触れた人、人との出会いがきっかけで元気が出たり、やってみようと思えたり、涙がでたり、優しい気持ちになったりした。でも、その人たちは私のため…とか、私のことを…とか、そんなこと考えて行動していない。だけど何かを感じたのは私だし、変わったのは私だ。そっか。。いま生きている人の「生きる力」を与える人になればいいのだなと思った。どんな形でもいい。ご飯をつくることでもいいし、文章を書いたり、絵を描いてもいい。真剣に話を聞くことでも、笑うことでも、手に触れることでもいい。広くてもいいし、狭くてもいいし、大きくても小さくても、強くても弱くても。どんな形でも、生きていることは、「生きる力」がそこにあるから。いま生きている。という力が、必要な人に届きますように。。それは希望のようなものかもしれない。浄化するもの、理解を得るもの、あたたかなもの、光のつぶのようなものかもしれない。この祈りを持って、生きていけることを願う。