伊崎厳島神社御由緒記
其れ当社の本縁を訪ね奉れば、当に時五百余年の昔、源氏・平家火乱の折、官軍いくさに負け京都没落して西海に浮かび、船中祈誓の為に芸州厳島大明神を兵船に勧請し奉る。讃州八嶋に寄り、長州壇の浦(現・下関市壇の浦)に至合戦に負けて軍破れる。密かにこの神体を当浦の磯岩に奉り、面して逃げ出す。時に文治二年(一一八六)の事なり。浦の翁、海上に一神の祠あるを見るや、金光貫重かる異香既に近辺に満ちて信託して曰く「厳島也」と。衆人之を異とし、小社を構えその中に請安す。(以下略)
五穀豊穣、商売繁盛、航海安全の神社で、同様に安徳天皇がお連れした云われがある。
これは仏様である八大龍王を神格化したもので、真北の直線上に位置する下関市大字吉見の古社、龍王神社の上宮、中宮に祀られている八大龍王と同一で航海の仏様である。また、同様に真北に位置する金毘羅さん、垢田八幡宮内の黒崎妙見社なども航海安全の神仏である。
伊崎町にある海晏寺には、平教経の護持仏である阿弥陀如来様が御安置されているが、次の様に云われている。「壇ノ浦敗走後、王城山に立てこもった平知盛は、平家残党の武運長久と平家再興を祈るため、寺を3つと神社を一つ祀った。阿弥陀如来を海晏寺、愛染明王を四福寺、薬師如来を薬師堂、さらに市杵島姫神・田心姫神、湍津姫神の三女神を厳島神社という配置である。」また、海晏寺の平家灯篭は、文政9年、海晏寺焼失の際に平家との因縁から、兵庫から参拝した近江屋幸三郎、河村源三郎に寄進されたと云われている。