高杉晋作の終焉の地 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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高杉晋作の終焉の地、近くに新地会所、長門国厳島神社がある。

初めてお参りしました、 1867年5月17日に亡くなられました。満27歳の生涯でした。ちょうど小倉戦争に勝利したあとでした。面白き無き世を面白く!でした。

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参考

① 西に俗論党に追われて隠れていたという井戸がありました。当時は入江の対岸の伊崎ですが、今は国道191号線を挟み近所です。この時、一日中の水の中の潜伏で弱り、結核病になったと推測されています。

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② 周辺地図

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終焉の地






⑤ 戒名(参考)、墓(参考)


⑥ 翌慶応3年(1867)3月、正妻のマサが看病のため萩から訪れたことを機に、桜山町の東行庵から下関の町中にある林算九郎(はやしさんくろう)邸の離れ屋敷に移った。3月の後半あたりから病気は重篤になり、4月14日に数え年29歳という若さで息を引き取った。

死の直前に高杉は筆と紙を求め、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と書きかけたが、力が尽きて後が続かずにいたところ、そばにいた歌人・野村望東尼(のむらもとに)が「すみなすものは心なりけり」と下の句を代わりにつけてやったという(「世をおもしろく」→「世におもしろく」が正しいとも)。