高杉晋作の仏式戒名、全義院東行暢夫居士の謎
高杉晋作は慶応3年4月14日が命日で16日に神式の葬儀が吉田の末富家で執り行われ、おおよそ2千人の参列者が有ったとのことです。墓碑銘は東行墓となっています。これは桜山神社、各地の招魂社、靖国神社など神道の流れにのったものと思われます。ところが、東行庵で執り行われるご法事は曹洞宗の仏式で戒名は全義院東行暢夫居士となっています。どうしてでしょう?
これは同年4月19日に仏式葬が萩で家族葬として執り行われ、萩市椿東椎原の護国山団子岩の吉田松陰の墓の後ろに祀られた東行暢夫之墓に遺髪と臍の緒が埋葬されたことに始まります。この家族葬には外からは木戸貫治(孝允)くらいしか参列していなかったようです。萩の菩提寺は曹洞宗の亨徳寺で先祖代々の墓がありましたので、この寺から戒名を頂いたと推定できます。現在は、亨徳寺の先祖代々のお墓も、両親の他、子孫が埋葬された東京の瑞聖寺(黄檗宗、徳山毛利氏の菩提寺)のお墓も、東行庵の晋作の墓の近くに合祀されております。
調査先:
1 萩市観光課、萩まちあるきマップ
2 東行庵庵主
3 下関市図書館長
4 Google検索
萩の晋作の墓の周りには吉田松陰、久坂玄瑞、玉木家、吉田家、杉家の仏式墓などがあります。また、近くの毛利家の菩提寺である黄檗宗護国山東光寺には禁門の変の責任をとった家老たちの墓もあります。玉木家は文之進までは仏式、以降は神式です。