穴戸の語源 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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小瀬戸(小門海峡)が穴戸の最有力候補か?

最新の研究成果では、広義には大瀬戸、早鞆の瀬戸も穴戸である。戸が3ヶ所有るので穴門となります。また、北浦海岸の多くの入江の口なども穴戸、又は穴門ですから、長い海岸線に多くの穴門が続くと長門になると考えられます。

ここでは、代表的な神代の穴戸の最有力候補かどうかを考察する。

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本州最南西端と彦島の間、小瀬戸を響灘から入る。

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大陸から来航する人々はここから本土に上陸するか、周防灘に向かうであろう。関門海峡は東端の早鞆瀬戸と南西端の大瀬戸、北西端の小瀬戸(小門海峡)からなり、北西端の小瀬戸が本州最南西端の細い海峡であり、湾曲して視界が悪いが、門司、小倉側の大瀬戸より近道であり、古墳時代以前の船、航海術なら大瀬戸より航行が容易であったであろう。この細い蛇行した海峡こそ穴に見え、この大陸からの来航者の入口こそ穴戸であろうか。また視界が悪く、細いことから、隠戸、小戸→小門とも呼ばれる。記紀にある神功皇后が穴を開削して拡げ、削りとった土で引く島を作ることも当時の技術で可能かもしれない?また、約6000年前に本州と九州が分断され海峡が形成されたとすると、この時代の記憶があったのかかもしれない?最新の研究では内海を穴海と言い、トンネルは不要である!
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明治時代  小瀬戸の黒点が岩礁

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岩礁が日乃出温泉の地点、対岸が海士郷町

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昭和17年埋め立てが完了、関門トンネルが開通し、山陽線線路が南北に走り、岩礁が有った地点に偶然、日乃出温泉が湧き出て現在に至る。

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現在、小瀬戸の南端の最狭部がパナマ式閘門となっている。

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穴戸から響灘、六連島を望む。撮影地点は桃先稲荷大明神、夜焚観音菩薩のあるところ。悲恋女性の身投げ伝説もある。

また、幕末の馬関と小瀬戸の古地図(伊能図など)を見ると、小瀬戸(小門海峡)が響灘への出入り口、北前船の航路であり、まさに穴戸の地名の発祥の地、語源と言い切れます。

補強論文

自然と文化 第62号「瀬戸内を生きた人びと」、社団法人  日本観光協会、平成11年度 

「瀬戸内の西の門 」伊藤 彰から、

◎小瀬戸と穴門発祥地◎

ひとくちに関門海峡といっても、実際には三つの瀬戸からなる。

東口の早鞆瀬戸、西口の大瀬戸と小瀬戸の三つがそれである。今川貞世の『道ゆきぶり』(一三七一)以来、早鞆瀬戸と大瀬戸を結ぶ、いわば海潮の本流を東口から見て穴門なる呼称がうまれたとする説が圧倒的多数派を形成するが、私見では穴門は小瀬戸の景観的表現と考える。

050-1.gif小門(小瀬戸の西口)。遠景中央は火の山

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江戸時代の風景画に見える壇の浦(左端)と友の浦(小湾入部)[町田一仁提]

その点では重山051-1.gif下関二千年史』所収の「長府名所雑記」(江戸時代、作者不明)の一節に見える

穴門は長門の元の国名也。その穴門国の内に又穴門といへる所之有。一云、穴門は竹崎といふ浦の西にあり、今俗に小迫門(こせと)と云ふ所なり

の把握に賛意を表したい。

「穴」は袋小路のような通路、「門」(戸)はその出入り口と捉えておく。まず下関市壇の浦(現=壇の浦集落の東寄りの海辺)と北九州市門司区古城山(関門橋直下)との間の早鞆は、穴と呼ばれる景観ではない。地形的に狭まってはいるが、航行上の見通しを妨げるようなものはなにもない。海峡名となったトモは、壇の浦と前田(古代臨門駅推定地)の間の友の浦に由来するのではないか。ここの岩石海岸は近代以降の道路拡幅や防潮堤の造成によって原地形を残さないが、元は小規模な山脚が伸びていて、澗(ま)的小湾入をなしていたと推測している。典型的なトモ地形としては、広島県福山市の鞆の浦、佐賀県呼子町の大友・小友が参考となろう。後者は『備前国風土記』に「登望(とも)」と見え、その名義を「鞆」に求めている(私見では弓具としての鞆を想定するが、「出雲国風土紀」は巴型とする)。

穴門が大瀬戸でないことは、はっきりしている。大瀬戸であれば、穴門(長門)国は九州(豊前)になければならないから大瀬戸説ははなから問題にならない。

小瀬戸は小門(おど)を西口とし、伊崎と海士(あま)の郷(ごう)を東口とする狭小な水路で、西口付近に屈曲するところがある。この屈曲して見通しがきかないという地形的特徴に加えて左右から山が迫って圧迫感がある――この圧迫感は筆者が便船に乗って六連島(むつれしま)(紀の没利嶋(もとりしま)、現=下関市)からの帰途、西口をカーブする折りに感じたことだから当てにはならないが、先史海民の穴門イメージの構成要素としてあったかも知れない。

余談はおいて、はじめ西口付近を指す言葉であったアナトは、ここを通航する内・外の海民に受けいれられ、やがて関門海峡北岸一帯の小地名を包括する分母地名となった。アナトが漢字表記されて「穴門」としておめみえする初めは仲哀紀で、七ヵ所にわたって「穴門」が使われる。このうち「穴門豊浦宮」はアナト地名が早鞆瀬戸をぬけてさらに東へ及んだことを示し、また「穴門直践立(あなとのあたいほむたち)」の名は、アナト地名が玄界灘(響灘)側にもその分母領域を拡張したことを示唆する。践立は綾羅木川流域に本拠をもつ在地首長と考えられるからである。

「直」という姓(かばね)は海にかかわり深いとされる点からみて、下流域に集中する前方後円墳の被葬者のひとりであろう。ともあれ、アナトは小瀬戸の西口を出て本州島の西端を海沿いに東と北へひろがって行った。第一次アナト地域という捉えかたをすれば、現、豊浦郡の範囲となろう。「長門」は奈良時代の佳字改名によると考えられる。

 

◎小瀬戸掌史◎

小瀬戸は一九四〇年代のはじめごろ、その東側に関門鉄道トンネルを通すために埋め立てられ、縄文時代前期以来の内・外をつなぐ水路としての役割りを終えるが、文化史上最大の仕事は、それまでのネットワークを通して北部九州に将来された水稲耕作文化を瀬戸内沿岸に伝える、その唯一の水路となったことだろう。大瀬戸の水路としての利用は、どんなに早くても古墳時代の半ば以降と考えられる。第2]図は弥生時代前期後半(前二世紀)の高槻式土器と奈良時代(八世紀)の六連式土器(焼塩壼)の分布を示したものである。前者の分布は紫川流域(現=北九州市小倉区)からまず綾羅木川流域に伝わり、あるいは小瀬戸をへて木屋川下流(現=下関市吉田)へ伝播したことを推測させる。綾羅木川の河口は、航海者にとっては小瀬戸の潮待港でもあった。後者は当時の塩の道が大瀬戸を迂回するのではなく陸路周防灘側へ搬送されたことを示す。

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図1]関内海峡の地名と前方後円墳

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第2]図高槻式土器(○印)と六連式土器(●印)の分布[「関門を結ぶ古代の土器」第9回日本海峡フォーラム実行委員会作成『海峡の考占学』所収]