下関市永田本町1丁目、旧大字永田郷
子供の頃から広い空き地があり入浜式塩田の跡と聞いてはいたが、気になったので久しぶりに行って見た。長州の三白の一つ塩の生産を行ったところの一つであろう。歴史的には日本最古のものらしい。今はご覧の通り、太陽光発電パネルが並んでいた。
近世塩田跡地、北方向に永田神社、中世塩田跡地、梅ケ峠があり、南が海岸。
吉見の塩田について、「よしみ史誌」(昭和60年刊)に、龍王神社文書によると弘安年間(1278~1288)にはすでに永田の浜で潮の干満を利用した入浜式塩田が操業されていることが記録されており、これは記録では日本最古の入浜式製塩跡であるとのことです。もちろん製塩自体はもっと古くからおこなわれていたはずです。
永田神社の北の水田も中世の塩田跡と言われているが、神社創建が779年とあるから、それ以前の古代から操業されていたと思われる。長府の忌宮神社に納入されていたとあり、神功皇后、応神天皇とのつながりが伺われる。北方向にある梅ケ峠の砦跡地(推定)のための塩生産かもしれない。
② 永田神社
④ 冬で寒い穴門の吉母(下関市吉母)に到着された神功皇后は藻を寄せて暖を取って、応神天皇をご出産されたと言う伝説(吉母の語源)があるが、これの藻は藻塩焼製塩のために予め集めてあったのかもしれない。この製塩法が発達して、隣りの永田郷の入浜式製塩になった可能性も否定出来ない。
④ 吉見の塩田は、永田神社の創建779年以前と言うことで、奈良時代の創業で日本最古と言える。
⑤ 永田神社の北側の古代塩田跡は、潮位の関係で揚げ浜式製塩の可能性があり、さらに時代が遡ると古墳時代後期に作られ始めた六連島式土器による製塩から始まったであろう。対岸の北部北九州も産地となっている。
奈良時代の製塩地(青は集中地) 出典
⑥ 製塩土器の進化について以下の研究成果があるが、関門地域に示す高槻が付いていない六連島式製塩土器は近隣に無い特異的な形であり、渡来人(秦氏)が外からもたらした可能性がある。また、畿内に高槻式と六連島式が同居しているのは、秦氏の東遷で土器の製法が東遷したのか、又は納税として塩の入った土器の海上輸送があったのであろう。伝播経路の再検討が必要である。
⑦ 最古の入り浜塩田
古式入り浜塩田は、吉見永田町にあり、日本最古といわれている。絵図を含む有光家文書は重要文化財に指定されている。
近代の本格的な入浜式塩田に先行するものである。その基本的な構造は、堤防の取水口から海水を導入し、塩田地盤に浸透させると、毛細血管現象によって、海水が上昇し、地盤面に散布した撤砂に付着する。次に、水分を天日で蒸発させて濃度の濃い塩分を含んだ砂をつくり、これを集め、さらに上から海水をそそぎ、塩分濃度の高い塩水を取る。最後に、これを塩釜で煮詰めると塩ができあがる。
現在地は、吉見永田八幡宮の北で田園地帯となっている。
(下関市年表より)(彦島のけしきより)