甲山の左手の室津湊(今はヨットハーバーと漁港)、右手に古墳群がある。正面、南方向に吉母港がある。
この室津は室津郷として935年ごろ編纂された和名抄にも記載されている。
甲山の南東斜面(標高20~40m付近)には、96基の「甲山古墳群」と通称されている一大群集墳が密集している。一部採取された須恵器の壷や宋の青磁の破片などもあり、築造は7世紀末~8世紀初頭と推測されているが、ほとんど未調査であり、まだまだ古い物もあろう。豊浦町の古墳の96%がこの周辺に集中しているという。
さらに、秦王国の墓地であったであろう。また、日本への渡海途中に亡くなった人の墓地としては響灘の藍島が考えられる。秦氏は死者を穢れと考えていたと思われ、梅ケ峠の高天原周辺など明らかに秦氏関連と思われる場所に古墳などの遺跡が無く、遺物が出土しない事の理由と考えられる。
参考
2 長門城
3 土師器、須恵器の出土
4 この甲山古墳群を研究すると歴史が変わるくらいの成果が期待出来る。豊浦町史 昭和54年12月 P100 ~ 104に以下の記述があった。
(室津)湊周辺の心光寺古墳よりは新羅の須恵器、蓋付の椀2点が出土している。統一新羅以後のものであろうといわれている。また、甲山群集墳中から、青磁の皿様のものが出土した。 完成品ではないから正確な器種はいえないが、宋の青磁で、しかも南の方の福建の海岸寄りの窯のものと推測されるものである。 多くの古墳中、たまたま破壊された古墳の清掃の際、発見されたものの中でさえ、このような出土物がみられるのである。 現在はほとんどが盗掘りを受けているが、その昔にあっては、かなりの質と量が内蔵されていたのではないかと思われる。さらに、古い時代のものでは、大門古墳の近傍の水田より、漢鏡破片や金の耳飾りが採集されている。また、甲山群集墳より丹(に) が出たという話を、しばしば耳にする。
延喜式内蔵察式に「長門国胡粉廿斥緑青二十斤丹(に)六十斥右長門国交易所進」 とある。他の国への丹の割合はあまりなく、あったとしてもほんの2~3斤に過ぎないのに、長門国にだけ60斤とあるのはなぜか。 丹の原料の埋蔵地であったとは思えない。 特に、この場合「交易の進めるところ」 と注釈が書かれているところは注目される。 この交易相手が国内であれば、その相手国の筑紫とか、豊前とかにもそれぞれ課せばよいはずである。 とすると、交易には国外の可能性がある。丹についての話は多い。「子どもの頃、兄たちが吹原の上の畑(甲山の裾部) の底から、出てきた平石の下から壺を拾いだし、海で洗ったら、海がまっ赤になった」(73歳の老女談)。 その壺は、海に捨てられたか、今はないとのことであった。 それに似た話はほかにもある。 この附近には「小判千枚、朱千杯」 という伝承があり、どこかに埋もれているというのである。 朱壺が出たので、また埋めもどしたという昔話もある。「壺が土中より出てきて、海で洗ったら海がまっ赤になった」との故老の話を聞いて、その壺の行方をたずね廻った結果、八ヶ浜より厚母に移られた古吉家に所蔵されている壺に出会うことがかなった。最初の印象からして異国のものである。 土師須恵系統とは別種のものである。 朱を入れる目的の容器で、高台がしっかりとつくられている。ロクロ使用の跡があるが、全体が大まかである。 高さ14.52センチ、胴部13.5センチ、内径73.6センチ、高台部径9.76センチである。
これらの事実をもって、ただちに室津湊における海外交易と結びつけるには問題があるが、少なくともひとつの可能性としては、とりあげることができよう。続日本後紀、承和8年(841) 12月の条に「22日長門国より渤海客徒賀福延等105人来着を報ずる」 とみえる。 渤海国については後述するが、遣使の使命のみでなく、交易もしていたようである。室津湊に土地柄よりこの渤海国との関係を想定することは、無理であろうか。
また、日本後紀、弘仁5年(814) 10月の条に「新羅商人31人長門国豊浦郡に漂着」 とある。 この方には郡名まで記してある。 朝鮮海峡の横断は、かなり対馬海流の影響を受ける。 なお、夏季季節風は南西の風である。 現代の大型機械船時代よりは、想像もしがたい、木造帆船時代の航海である。 大正時代小型帆船で往来していた故老の話によると、こちらから渡る場合は、九州松浦湾あたりまで海岸沿いに下り、そこから出発すると釜山に到着し易い。 逆に釜山を出港して帰る場合は、自然に室津湾の甲山の見える位置にくるということであった。
(室津)湊周辺の古墳が機能していた時代が問題となる。 一般には古墳時代は4世紀より6世紀にあてられているが、とくにこの地域の古墳の終期を6世紀よりもかなり降るとみなすことができるかということである。いま例えていえば、間古墳出土の壺には7世紀に比定されるものがある。さきにあげた心光寺古墳出土の新羅須恵器が統一新羅のものであるとすると、7世紀末以後ということにもなる。 甲山群集墳中より8世紀ごろとみられる壺が出土し、さらにここからは宋の青磁まで出土している。 このような高価な品を、すでに機能を失っている墳中に投げ棄てることはとうてい考えられない。
古墳も横穴式古墳となると、現代の代々墓に近い機能を持つようになり、構築年代と機能年代との間に開きができる。 宋の青磁はいちおう問題外としても、当地域では古墳の機能を早くうち切ると、その後の埋葬形式との間にできる空白がひろがり過ぎる。ともかく、機能としての古墳の時代でも、6・7・8世紀と降るとなると、外征・防衛、さらには交易と、対大陸多事な世紀と重なる。
追加
元寇、弘安の役で、建治元年(1275)4月15日、長門国室津(現・豊浦町室津)に元の使者が上陸した。さらに、弘安4年5月21日から閏7月7日(1281年6月16日から8月29日)、敵艦船の一部が宗像の沖から長門の国へ向かったが、撃退されている。来襲地点は豊北町の土井ヶ浜とも、豊浦町の室津湾ともいわれており、豊浦町厚母の阿蔵の千人塚は、元軍来襲時に討死した敵兵を葬ったと伝えられている。
追加取材 甲山古墳群
甲山に登ってみた、初めヨットハーバーの蛭子社の近くを登ってみたが古墳の石を見かけた。また、こんもりとした円墳に盗掘の穴が開いているのを一つ見かけた。まともな道が無かったので南側の登山口から登ってみた。
山口県の調査では山の麓あたりに古墳が分布しているとの事であるが、調査は一基のみであり、今後が待たれる。麓あたりで入り口の開いた古墳の写真の報告があるが、これらは全て盗掘後のもので、残念ながら役に立たない。
県の報告書、下関市考古博物館でコピー
頂上あたりに岩質の異なる山の風化では無い岩が重なる様に転がっていた。考古博物館の学芸員さんのお話ですと古墳の岩では無いとのこと、何の為に山頂付近まで岩を持ち上げたのか疑問である。
頂上に不明な祠があった。
ほぼ東に鬼ケ城山が一望できた。
頂上に不思議なドーナツ状の土塁を発見した。港に入出港する船の為の烽火台であろうか?麓の遺跡の説明板にも説明が無く、下関市考古博物館にも資料はなかった。
土塁の中を写したもの。さらに西端の泊ケ鼻台場は1846年の外艦打ち払いのための砲台があった場所とのことです。ペリーが浦賀に来航する前から、外国の艦船がうろうろしていました。