永田神社 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

永田神社、下関市永田本町3-5-16


御祭神:応神天皇・神功皇后・天照大神・月読命由緒


宝亀10年(779)宇佐八幡宮を勧請、旧社名は潮止八幡宮と称していたが正吉八幡宮と改称、さらに大正6年(1917)厳島神社(梅ヶ峠駅西裏山にあった旧村社)、日野八幡宮、日吉社、大歳神社、八王子社、蛭子社、天満宮、貴崎神社の8社を合併し、地名をとって永田八幡宮と改称した。


{39EBC5F6-B9CE-420E-9B00-F0B0937059B0:01}

正面の鳥居は厳島社、梅ケ峠にあった。奥が八幡宮。

{8216CD8E-17CD-4961-AF43-C34BF9FAD37D:01}
拝殿

永田本町の永田神社に大正6年(1917)、合祀された厳島社が梅ヶ峠駅西裏山、妙音寺にあった。現在の永田神社は厳島社、779年創建の八幡宮ほかを合祀しているが、厳島社が最も立派な鳥居を最前列に建立している。元の場所では、溜池が付属した厳島社で宗像三女神のお一人、市杵島姫命を祀っている。この神様は神功皇后を三韓征伐のおり渡海のお世話をした海人族の宗像氏の氏神であり。西方向は正に吉母、蓋井島、沖ノ島(宗像大社)、対馬の厳原になっている。真東には一山越えて、鬼ケ城山、狩音山がある。

{911B32C5-B69F-4702-9ED1-5DE0EB418D1E:01}
この八幡宮は中世塩田の海岸側に在りながら、779年の創建とある。つまり、中世塩田は実は779年以前のもっと古くから操業されていたと思われる。この中世塩田の北方向に梅ケ峠があり、ここの砦跡地(推定)の生活物資としての塩生産かもしれない。

当神社と吉母の若宮神社、梅ケ峠までの長い道のりが参道であり、高千穂のクシフル峰を象徴している。


参考




永田神社の宮司、有光家について、厳島神社大宮司の秦氏の一族で、正吉八幡宮の大宮司の秦弘延から正吉八幡宮を引き継いだことを、以下に書いている。(文化庁データベースにある)


有光家は正吉郷内厳島神社大宮司であった秦氏一族で、有光系図によれば六代武弘が暦応四年(一三一四)に正吉八幡大宮司の秦弘延より同社大宮司職を継承しており、爾来正吉八幡宮宮司職を相伝しつつ、中世通じてこの郷域を基盤土豪領主としてその家系の維持に努め、近世迎え家柄である。

本文書はかかる中世土豪有光氏の歴史具体的に伝えたもので、大部分中世文書である。内容有光氏の所領に関する譲状売券充行状などが中心占めるが、これらのなかには鎌倉から南北朝時代正吉郷地頭や地頭代発給した補任寄進状がみえて興味深い

{A182DB47-E43C-4823-984C-4496469A222D:01}
長門国正吉郷入江塩浜絵図、上が南方向

また、長門国正吉郷入江塩浜絵図は、初期入浜式塩田を描いた絵図として、最も時代遡る遺品である。図は南側の海岸を上にして永田川東西広がる入江干潟周辺を描いたもので、中央には「入江干潟」の墨書と、本堤をもって囲まれたその範囲をもって示されている。本堤内側には地積等をあらわす注記があるほか、川寄り干潟には五つの「塩塚」を描き南側の浜に向けて大道口」がみえる。本堤周縁には「本田今者不」などの注記があり、海岸に面した松林に「八幡宮」の建物二宇と鳥居一基が描かれている

本図には作成年紀などを示す墨書等はないが、竜王神社所蔵文書中の嘉暦二年(一三二七)二月十二惣公文物部武久請文案には、正吉塩浜の塩未進についての忌宮供僧訴えに対して惣公文塩浜経営実態説明するために絵図一通作成したことが記されていて、本絵図がこの嘉暦相論時に作成されたことを明らかにしている。

以上、有光家文書中世の「地方文書」ともいうべき性格を有しており、正吉八幡宮社家有光氏とその周辺を含む地方領主層の具体変遷伝え価値が高い。