アーネストサトウと旧下関英国領事館 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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サー・アーネスト・メイソン・サトウ
(1843年6月30日から1929年8月26日)は、イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使などを務め。日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。元治元年の下関戦争の際、ユーリアラス号に通訳として乗艦し、下関の重要性に気付いた。英国駐日公使になった際に下関領事館設置を提言し、明治34年に全国三番目の英国領事館が開設されました。

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以下、下関市の観光ホームページをそのままのコピペします。

下関市民の心の安らぎであり、誇でもある「旧英国領事館」。平成11年5月に国の重要文化財の指定を受けました。下関市内の国指定文化財(建築物)は、国宝である功山寺仏殿、住吉神社本殿、重要文化財で毛利元就が寄進した住吉神社拝殿に次いで4件目の指定となりました。 

明治後半、時の駐日英国大使アーネスト・サトウは、成長著しい西日本における外交・経済・交通の拠点である下関に英国領事館を設置することを本国へ具申。明治34年(1901)9月、英国領事館が下関に設置されました。

その5年後の明治39年(1906)、領事業務の拡大に伴い、領事館が新たに建設されました。これが現在の建物で、現存最古の領事館建築物であることに加え、明治期の外交関連施設の典型を示すものとして歴史的価値が極めて高く、国際都市下関を象徴する建造物です。赤煉瓦に包まれた建物は、昭和16年(1941)まで使用され、領事室や領事の居室などに使用された主屋と、使用人室や厨房などに使用された附属屋からなっており、設計者は英国工務局上海事務所技師長のウィリアム・コーワンと推定されています。

平成20年(2008)から保存修理を開始。文化財としての根本的な保存修理として、耐震補強や地盤改良、復元などの工事を行いました。平成26年(2014)7月18日にニューアルオープン。リニューアル後は、1階が領事館と地域の歴史を紹介する展示スペース、当時の雰囲気を再現した領事室、2階が英国風カフェ&パブ、附属屋が市民ギャラリーになりました。

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参考

① アーネストサトウが伊藤博文に接待された旧大阪屋も近くにあります。最近の研究から、大坂屋の他、佐甲本陣での接待もあった。

外交交渉としての初の接待か!(参考)




③ 貝島炭礦株式会社は、下関市唐戸2番地で、現在の旧英国領事館に隣りあっていました。本社屋は、赤煉瓦造り、3階建てで、明治期にスコットランド系商社の「ジャーディン・マセソン商会」の支店として建築されたものでした(参考)。現存する旧英国領事館よりもはるかに大きく、威風堂々とした建物です。1945年(昭和20)7月2日に下関市はアメリカ軍から激しい空襲を受け、赤煉瓦3階建ての貝島本社も焼け落ちました(参考)。


④ 日本人妻へ500通のラブレターを送った(参考)


⑤ 旧下関英国領事館と旧唐戸市場(現カラトピア)

唐戸魚市場(大正十三年) 、阿弥陀寺町にあった魚市場が、大正十三年六月に唐戸町に移転。木造スレート葦、平屋建ての中央の建物で、左は旧英国領事館。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)



⑥ 領事館  唐戸の盛衰とともに


「午後であった。太陽が海峡の向う側にまわって、街の上に夕暮れの色が落ちはじめたころ、前田村の方から遠い砲声がひびいた。続いて長府、杉谷、壇之浦、彦島の台場に煙があがって街と海峡の上に不吉な音波をひろげた。街は瞬間沈黙した。人々は酔っぱらった顔を見合わせた。そして、砲声が黒船の来襲を警告する合図であることを理解すると、狂人のようにあわてはじめた。祭礼の騒ぎが、避難の混乱にかわった。人々は仮装をおとし晴れ衣をかえる暇もなかった」(林房雄「青年」より)

元治元年(一八五四)八月四日夕、英米仏蘭の四国連合艦隊十八隻が海峡に到着、翌日から三日間、下関側は必死の防戦につとめたが負け戦だった。このとき、若き日のアーネスト·サトウが通訳官として艦に乗組んでいた。まさか後になってこの親日家が下関に影響を持つようになろうとは、おそらく誰一人として予想だにしなかったであろう。

のちに駐日英国大使となったサトウは明治三十二年、関門両港出入りのイギリス船が四百三十隻にものぼっていると本国に報告、下関には将来領事館ほ置くべきであると進言したのである。のちに駐日英国大使となったサトウはこの報告の中で「関門両市の距離は汽船で約20分。狭い海峡を隔てて相対し、両地とも税関はあるが、一つの港を形づくりしかも両市で合併を促進しようとする機運にある」と、きわめて興味深い意見を述べ、領事館の必要性を説いている。

これがきっかけとなって明治三十四年、赤間町に領事館(仮事務所)が開かれ、西南部町の瓜生商会の二階に移るなどした後、三十九年に唐戸の現在地が市から提供され、赤レンガの洋館が建てられたのである。設計者は日本の初期洋式建築に大きな足跡き残しているアレクサンダー·ネルソン·ハンセルであった。

明治-大正にかけて、下関では他にオーストリア、ハンガリー、ドイツ、ポルトガルの領事務もとられていた。ドイツ領事館は明治四十一年から二年間、城山の市有建物を借り切っていたほど。地方にあって、まさしく国際都市であるが、英国領事館はその国際都市·下関の一つのシンボルでもあった。

第二次大戦に突入してからは領事館事務は事実上停止したが、地上権や建物はそのまま。これが愛国心強き市民の反感をかって、領事館に市民が押しかけるという騒ぎまであった。終戦後、イギリスとの国交も回復したが、領事館は閉鎖状態が続き、昭和二十八年、レンガ造り二階建て320平方メートルり本館と、木造平屋66平方メートルをそっくり市が買収、赤レンガ造りの歴史的建物は市有財産となったのである。

現在、考古館として歴史考古資料が展示されているが、一部内装をしたくらいで、外観はほとんど明治時代に建てた当時のまま。一時は建物の存在が唐戸開発のジャマになると論議を呼んだこともあったが、今では逆にこの由緒ある建物こそ唐戸に欠かせぬものだと、保存の方針が打出されている。

前方の海は埋立てられて国道になるなど、領事館の周辺は激変した。この中にあって、色あせ赤茶けたレンガだけがその移りかわりを静観、歴史の重みを伝えてきた。

唐戸の大がかりな再開発が始動しかけているが、おそらく十年がかりの大事業が終わって唐戸が驚くばかりの変貌をとげたとしても、この赤レンガの洋館だけは、今のままの形で静かに在ることだろう。そこにこの建物の大きな価値を改めて思いしらされる気がするのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)