長府藩、報国隊 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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元治元年(1864)8月、京都禁門の変に敗退した長州藩は、俗論派が台頭し幕府に恭順する方針へ転換し、長州藩緒隊は解散を迫られました。そんな中、正義派として長府藩の藩士熊野直介(則之)、福原和勝ら20名が、同年11月23日豊功社神前(当時、住吉神社内に疎開中)において、決死報国の盟約を結び、86名が加盟した。その中に乃木希典桂弥一、滝川辯三など集童場の生徒だった者も多く加わっている。原田隼二と野々村勘九郎が都督、福原和勝、以下6名が軍監、大場伝七、和智格以下5名が参謀。

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豊功神社、串崎城跡の北側

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翌 慶応元年(1865)1月18日には、同有志 数十名が豊功社に参拝して、国家の安全を祈り、報国隊組織上申書を作成して藩主に提出し、同年2月14日、報国隊の設立が許可されました。

百姓も入隊を許し結成された報国隊は、当初の任務は「赤間関を扼(やく)させる」ということで、調練を続けながら赤間関の警備に専念する。慶応元年3月15日から力士の隊、盤石隊を付属し、小倉口の戦いおよび北越戦争に従軍、特に北越戦争には405人が出陣し、百五十余日にわたる転戦中、57回の激戦に戦功を立てた。

隊の組織は初め狙撃2隊、遊撃2隊であったが、四境戦争時には6小隊、300人であった。本陣は椋野、調練は旭陵。軍資金は藩の公金のほか、民間からの寄付。

参考


戦場ガ原公園


桂弥一


大場伝七


功山寺の決起


報国隊都督、野々村勘九郎
●長府藩士萩野家に生まれ、野々村家の養子となった幕末期の当主野々村勘九郎は、藩内きっての剣客として知られる存在であったが、直情型で、他藩の士を切ったことから問題となり、藩主の配慮で泉十郎と改名。維新時に結成された長府藩報国隊の都督として、また三条実美ら西下潜伏の際にはその接待として活躍するが、高杉晋作による長州藩内訌戦(ないこうせん)が収まった後の慶応元年(1865)報国隊士梶山鼎介ら3名が保守派の一人林郡平を暗殺するといった事件などもあって藩内抗争に巻き込まれ、同年11月29日、汚名をきせられて切腹させられる(賜死事件)。彼もまた変革の時代の犠牲者である。
●その賜死事件については、捕方が野々村家をとり囲み、妊娠中の妻が塀越しに隣家に逃げ込んだとか、高杉晋作がその死を惜しんで、処刑を止めるべく駆けつけたが間に合わなかったとか、様々な話が語られている。


高杉晋作、伊藤博文など下関開港派が、下関港の萩藩直轄地化問題に絡み、清末藩士や長府藩士の攘夷過激派からの暗殺の危機にあい、晋作とおうのと四国逃亡、難を逃れた博文が梅子さんと知り合うなどの事件があった。これらに野々村勘九郎らが関係したとか、五卿の長府入り前、元治元年11月15日の中山忠光暗殺(福永正介が実行)にも関係が伺える。



野々村家の表門

文化財保護のため侍町に移築
●かつて長府南ノ浜町(古串屋東隣)にあった、130石馬廻格野々村家の表門で、昭和54年12月7日市文化財に指定。のち保存のため侍町に移築。

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(志士の杜を転載しました。)