元治元年(1864)8月、京都禁門の変に敗退した長州藩は、俗論派が台頭し幕府に恭順する方針へ転換し、長州藩緒隊は解散を迫られました。そんな中、正義派として長府藩の藩士熊野直介(則之)、福原和勝ら20名が、同年11月23日豊功社神前(当時、住吉神社内に疎開中)において、決死報国の盟約を結び、86名が加盟した。その中に乃木希典、桂弥一、滝川辯三など集童場の生徒だった者も多く加わっている。原田隼二と野々村勘九郎が都督、福原和勝、以下6名が軍監、大場伝七、和智格以下5名が参謀。
参考
報国隊都督、野々村勘九郎
●長府藩士萩野家に生まれ、野々村家の養子となった幕末期の当主野々村勘九郎は、藩内きっての剣客として知られる存在であったが、直情型で、他藩の士を切ったことから問題となり、藩主の配慮で泉十郎と改名。維新時に結成された長府藩報国隊の都督として、また三条実美ら西下潜伏の際にはその接待として活躍するが、高杉晋作による長州藩内訌戦(ないこうせん)が収まった後の慶応元年(1865)報国隊士梶山鼎介ら3名が保守派の一人林郡平を暗殺するといった事件などもあって藩内抗争に巻き込まれ、同年11月29日、汚名をきせられて切腹させられる(賜死事件)。彼もまた変革の時代の犠牲者である。
●その賜死事件については、捕方が野々村家をとり囲み、妊娠中の妻が塀越しに隣家に逃げ込んだとか、高杉晋作がその死を惜しんで、処刑を止めるべく駆けつけたが間に合わなかったとか、様々な話が語られている。
注
高杉晋作、伊藤博文など下関開港派が、下関港の萩藩直轄地化問題に絡み、清末藩士や長府藩士の攘夷過激派からの暗殺の危機にあい、晋作とおうのと四国逃亡、難を逃れた博文が梅子さんと知り合うなどの事件があった。これらに野々村勘九郎らが関係したとか、五卿の長府入り前、元治元年11月15日の中山忠光暗殺(福永正介が実行)にも関係が伺える。
文化財保護のため侍町に移築
●かつて長府南ノ浜町(古串屋東隣)にあった、130石馬廻格野々村家の表門で、昭和54年12月7日市文化財に指定。のち保存のため侍町に移築。