豊葦原中津国は三ヶ所はあった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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豊葦原中津国は秦氏が入植して定住したところであろう。従って、複数存在してもおかしく無い。

1 防長二州と豊前国あたり

下関の梅ケ峠の高天原、北九州八幡の高天原や宮地嶽神社の高天原あたりから進出し、開拓した。通説に秦王国があったと云われるくらい、秦氏の人々が多く住んだ豊前国と山口県あたりを中心とする。国東半島の付け根の北部に秦氏の氏神である八幡神を祀る宇佐神宮があり、さらに国東半島南部に杵築市がある。杵築とは城を築くと言う意味で、開拓を意味する。ここに九州最古の円筒埴輪を出土した全長130mにも及ぶ、大分県で2番目に大きい前方後円墳と云われる小熊山古墳(4世紀初頭)や御塔山円墳が有名で、さらに多くの古墳がある(参考)。南への開拓と隼人への対応が考えられる。

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2 出雲大社あたり

島根県中北部、出雲(いずも)市の一地区、旧杵築町は、古くから出雲大社の門前町、また市場町として栄えてきた。明治以前は、出雲大社は杵築大社といわれていた。地域の開拓を意味しており、斐伊川あたりに進出し、さらに関東へ進出して埼玉県大宮の氷川神社群を構成した。

6世紀中頃から7世紀前半に東部出雲を支配した首長たちを埋葬した墓が、山代二子塚古墳や、山代方墳、永久宅後古墳である。いずれも茶臼山山麓に位置している。また、近くには山代二子塚古墳にやや先行する大庭鶏塚古墳もある。これらの古墳を総称して、山代・大庭古墳群と呼んでいる。西部より勢力をました。(参考)

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3 畿内

畿内に進出した秦氏は、例えば大和の地を開拓し、例えば杵築神社など氏神を創建していった。

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杵築神社の分布(null)

二名杵築神社、奈良市二名平野町

祭神;素盞鳴命(主祭神)、大国主命、市杵島姫命

境内社;春日神社(天児屋根命)、大山祇神社(大山祇神)、神明宮(天照皇大神)

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典型的な秦氏の神社

本殿東奥に明治初年まであった、別当寺の「東福寺」の跡にある末社の「頌徳社」の横に、役行者えんのぎょうじゃの石像がある。


参考