秦氏の渡来ルート2014-12-25 09:18:58テーマ:下関歴史5世紀前後からの秦氏の朝鮮半島から日本に渡来するルートは、宗像氏、安曇氏、住吉氏の協力のもと、少なくとも4ルートあった。1は梅ケ峠を目指す長門ルート、2は八幡を目指す豊前ルート、3は島根半島を目指す出雲ルート、4は宮地嶽神社を目指す宗像ルートであった。途中には中継地として、6の沖ノ島、5の見島がある。出雲ルートには隠岐島を中継する場合もあろう。1と2の分岐には藍島が入ることもあろう。参考下関市梅ケ峠(1)北九州市八幡(2)島根半島、出雲市(3)福津市宮地嶽神社(4)萩市見島(5)宗像大社、沖ノ島(6)藍島(7)相島(4)天の浮橋下関市内のルート、周防灘と響灘を結ぶルート初期秦王国、4世紀以前の応神天皇が下関で生まれる前の国隋書東夷伝にある秦王国の首都は下関だった豊葦原中津国は三ヶ所あった、さらに東に向けて進出した候補地朝鮮半島の任那から渡来したシルクロードの弓月国を通過したYAP遺伝子で判明、秦氏は中東出身であった馬も一緒に渡来した沖ノ島などから出土した渡来人のお土産宮地嶽神社の宮司が自ら舞う筑紫舞など文化も渡来した神武東征のルート、筑紫の日向は宮地嶽神社の高天原だった。天照皇大神は宮地嶽神社の高天原付近の北九州にお住まいになった土師器、須恵器など先端技術が渡来した海人族安曇氏が渡来プロジェクトを進めた下関市豊北町の特牛などの牛の産地の観点から、追加ルートの存在が示唆される。天照大神と須佐之男命の間に宗像三女神が生まれた。沖ノ島は天照大神が居られる高天原か!高天原は伝染病を食い止める検疫所か!後代の筑紫の鴻臚館も外国人の迎賓だけで無く、検疫所の機能があった対馬、日本の窓口伊邪那岐命の真の居場所7世紀の白村江の敗戦での百済遺民の受け入れ窓口