福岡、宮地嶽神社の筑紫舞 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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宮地嶽神社の筑紫舞、宮司が演じる。

宮司自らが舞う筑紫舞は祭神に捧げるもので1600年の歴史があり、傀儡子によって舞われる筑紫舞や能、舞楽の源流であろう。

すなわち、秦氏と一緒に渡来してきたのであろう。


参考





③ wikiによると、「傀儡子(くぐつ)」は、日本の中世・近世に、人形芝居を見せるなどして諸国を旅した漂泊の芸能者集団であり、筑紫舞(つくしまい)は、筑紫傀儡子(つくしくぐつ)と呼ばれる人々によって伝承されてきたとされる伝統芸能で、跳躍や回転を取り入れた、独特の足づかいを大きな特徴とした舞である。

その起源は古く、『続日本後紀』天平3年(731年)の記事にその名を見ることができる。以来、神舞、傀儡舞など、何種類かに分類される二百以上の舞が、すべて口伝によって伝承されてきたと云われる。(ただし、木に記号なども刻んでいたらしい)

傀儡子について、その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる。また、平安時代の文人、大江匡房の『傀儡子記』に日本民族とは異なる習俗であるとあり、インドからヨーロッパに渡ったジプシーと同源で、インドから中国韓国経由で日本に来た浮浪漂泊の民族とする研究もある。

海人族安曇氏を傀儡子祖と見る説があるが、陸上を漂泊し男は陸上で狩猟する芸能の民として、海人とは文化的に同一視出来ない。ただし、別のブログに傀儡子が祀った神こそ阿曇磯良にまちがいないと言う解釈は正しい。傀儡子もタタラ製鉄技術と言う土師氏と同じ技術も持ち、秦氏の一員と言うか、一緒に海人族の安曇氏に渡来の手助けをしてもらったことは推測出来る。

傀儡子の芸能として操り人形があり、宇佐神宮の放生会が行われていた当時、和間の浮殿で奉仕した由緒を持つ例では、神舞細男舞)と神角力との二部からなり、今は社前で行われている。秦氏の神事に関わり、一緒に渡来した民であろう。