混一彊理歴代国都之図 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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魏志倭人伝の中の邪馬台国の大和説と九州説の議論の根拠にされた15世紀初頭の地図に図1の『混一彊理歴代国都之図』があり、この地図の中の日本列島が南北に長く、東が南になっていることが大和が邪馬台国である証拠とされた。これに対し、あとから発見された『混一彊理歴代国都之図(本光寺図)』、図2は正しく日本列島が描かれ、図1はうっかりミスとされて、大和の邪馬台国説を否定された。つまり、当時の朝鮮半島、中国大陸の官僚には日本列島の地理感覚があったはずであると、邪馬台国九州説の研究者は思い込んだ。

しかし、図2は戯作、または後の作である。最初に見つかった図1の『混一彊理歴代国都之図』がやはり正しい。中国人、韓国人の距離感で自国を描いても中国大陸、朝鮮半島が歪み、日本列島が遠くに配置されているのに、図1に比べ図2の日本列島がやけに正しい。九州は当然としても四国、淡路島、大阪湾、能登半島、伊豆半島、房総半島まで描かれている。壱岐、対馬も正しい位置関係にある。こんな詳しく正確な位置関係にある日本地図を外国人が知っているだろうか?日本国内で使用された行基図(図3)ですら、地理を熟知した知識人でないと淡路島や能登半島、伊豆半島などは気が付かない。壱岐、対馬はなどは日本に近いところに描かれるべきである。図4にある様に、西を上向きにした行基図もあり、賢い日本の官僚なら外国人には国防を考えて縦描きの図4を渡さねばならない。当時、正確な世界地図なんて日本には必要なく、日本の正しい地形を外国人に知って欲しくは無い。逆に知られてはまずい。中国、朝鮮の官僚は自国の地形も満足に知らないのに、何で日本列島に詳しいのか?江戸時代、伊能忠敬の日本地図をシーボルトが持ち出そうとして、大事件になったことを思い出して欲しい。

決定的に図1が正しい証拠は、壱岐と対馬の位置である。図1では2島の位置が朝鮮半島に近い、近いところで日頃の交流などが多く、より知っている所は近く描くのが自然であろう。図2では済州島をそのままとし、壱岐と対馬は比較的正しく、海峡の中央近くに移動させて朝鮮半島からとおざけた。例え、地図の作者が間違いに気づいて日本列島の南北を東西に訂正したとしても、壱岐と対馬を引き離す様に訂正するのは不自然である。朝鮮半島から見れば対馬を回転軸にするのが自然であり、後世の日本人の手が入っていると疑われても仕方が無い。


参考

『混一彊理歴代国都之図』は、明の建文四年(1402)に、朝鮮で作成された日本についての地図(京都・龍谷 大学蔵、以下、龍谷図)である。この地図には、日本列島が南北に長く描かれている。 

これが、古代から15世紀に至るまでの、中国人の日本についての認識であったとし、魏志倭人伝も、この誤った方向認識で記述されたとして、倭人伝の方角の記述を「南」を「東」に修正するべきとの論がある。 

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図1  混一彊理歴代国都之図


これに対し、弘中芳男氏の研究によって、この地図が、日本列島を南に転倒して描いているのは、15世紀の初頭に、 李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本の「行基図」を、不用意に挿入してしまったためであることが明らかになった。すなわち、同じ元資料から作られたと思われる『混一彊理歴代国都地図』(島原市本光寺蔵、以下、本光寺図)の存在が明らかになり、本光寺図では、日本は正しく東西に画かれていたことから、周囲の島嶼の配置などの分析により、本光寺図こそ、当時の地理観を正しく反映したものであり、龍谷図は、スペースの都合などによって、日本を南北に画いたものであると判断された。

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図2 混一彊理歴代国都之図(本光寺図)、壱岐、対馬、九州、四国が正しく描かれ、淡路島、能登半島、房総半島まである。図1では隠れていた台湾らしき島まで現れている。


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図3 行基図、淡路島や能登半島、伊豆半島は小さく無視される可能性がある。


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図4 縦描き行基図、西が上向き、九州、四国、淡路島、房総半島、能登半島が有る。しかし、日本に滞在しても、九州、本州以外は外国人には無視される可能性が大きい。


16世紀末からの世界地図、九州国立博物館所蔵地図は、西洋人により正しい方向で描かれてはいるが、地形は詳しくは無い。正しくなるのは18世紀からである。


隋書東夷伝においては、日本列島を東に向かうと認識していた。しかし、船の進行方向を全て東と記述しているように、方位感覚は曖昧である。また、時代が変わればこの東夷伝の記述の存在を忘れたり、日本国の高官から改めて間違った方位を教えられれば、直ぐに方向は変わってしまう不安定性はあろう。


西を上向きにする日本の国防戦略: 西を上向きにすることにして日本の窓口である北九州を玄関口にすると、例え侵略されても九州だけで済む事になる。従って下関の西海岸の北浦海岸だけを本気で防衛すれば済む。すなわち、これが今でも西を北と言い張る実例である。

台湾については7世紀の隋時代の探検記が有るのみで、中国が13世紀後半に澎湖島を領有したのみであった。台湾島の形を正確に知られるのは本格的に開発され始めた16世紀の明朝からであろう。台湾と中国大陸の間の澎湖島あたりの島嶼も修正されている。従って、図2は16世紀以降のものとなる。すなわち西洋人が日本列島の向きなど大まかに知った時期16世紀後半に、西洋人からの情報を基に図2を中国が作成したとすると、図1の約200年後の物である。