山口県の最西端の海岸は南端は彦島、北端は向津具半島辺りで、西に響灘が広がる。紺碧の海岸は西長門ブルーラインの別名を持ち、JRはみすゞ潮彩号を走らせている。二見浦の夫婦岩が日没の夕陽にシルエットを作る。この海岸を今も北浦海岸と呼んでいる。
この海岸の北端には、油谷湾のある山口県長門市の向津具辺りを岡の県主の祖・熊鰐は東門と説明した。この後、神功皇后が三韓征伐に出征する時は、近くの島戸浦に東門鎮護、住吉八幡宮を創建した。これに対し南端には、下関市の亀山八幡宮を西門とし、西門鎮護の八幡宮を関門海峡に3社もおいた。同時に北浦海岸の防衛の為に生野神社と大坪八幡宮が創建された。
東門は東端、西門は西端と同じ意味であるが、日本列島(特に本州)の東方向を南に90度回転させる方針が遅くとも15世紀初頭まであり、嘘の日本地図を朝鮮の高官に渡したこともある。この名残りが今でも残っていることになる。
元寇の時(西暦1274年、1281年)、2回とも、わざわざ夏場に北九州を襲ったのも防衛戦略通りでした。先兵は朝鮮軍であったが、日本列島の地理を知らなかった!知っていれば、冬の季節風と対馬海流に乗って日本海側を襲うべきである。
参考
FB友達の指摘で、西九州(佐賀県、長崎県)の郡名についた方角を示す名前が少なくとも2ヶ所で反時計回りに90度ずれてますね。佐賀県の○松浦郡(○は方角)を見てみると。それぞれの郡の中心点から見ると、東松浦郡が「北」、北松浦郡が「西」、西松浦郡が「南」に位置していますね。実際の方位では。また同じく長崎県の東彼杵郡が西彼杵郡から見て北に位置しています。大和朝廷からの指示が外国人の上陸しそうな各地にあったこことの証明になる(参考)。