秦王国の首都は穴門の国の北浦海岸(下関) | 日本の歴史と日本人のルーツ

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隋書東夷伝(記紀より古い656年完成)においては、日本列島は東西に長いがズングリした形になっている。そして、都は東方にあると正しく認識している。しかし、対馬国、壱岐国、筑紫国までの南下を東としているように、後年の1402年の世界地図でもそうであるが、中国、朝鮮が日本列島の大体の位置と形をいつも正しく認識しているかは疑わしい。日本が嘘を教えれば、いつでも南を東、東を南としてしまう不安定性が有ることを指摘したうえで、隋の使節がヤマトの都を訪問するまでの記述から秦王国の首都を求める。


東夷の人は里数を知らないとも隋書は言うが、案内人は里数を知らずに案内や航海は出来ない、国防上の秘密として、ごまかしていると認識して欲しい。隋時代の中国人よりヤマトの案内人(秦氏であろう)が知識が無いとは思えない。


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通常の行基図(奈良時代以降)

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江戸時代のズングリした日本地図(帆船などの速度、航行頻度などで心理的な距離は変わる)

魏志倭人伝と同じくヤマトまでの主要地点を記述しており、隋書が「都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る、、」と言うように、隋の使者は常に東へ進んでヤマトの都に至るように認識している。竹斯国(筑紫国)の海(玄海灘、又は響灘)の海上の船上で東に向かって秦王国と言えば、響灘の向こうの長門国(穴門国)の北浦海岸を指している。ただし、伊能忠敬以降の地図を頭に描いてはいけない。あくまで、最初にあげた行基図の上での対馬、壱岐、筑紫、長門の連なりと、船上での方位感覚での認識と理解して欲しい。(一支国(壱岐国)の辺で東と言えば南の竹斯国(筑紫国)を指す)


竹斯国の東に秦王国があり、これが豊の国とする為に博多湾で上陸し、ここから東に陸行させる解釈がある。しかし、それでは秦王国内を通過し、詳細を観察できることになるので記述に合わない。また、水行説でも、船で周防灘に出てからの東には豊の国は無い。



参考


『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ダイ國」によれば、ダイ王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業2年(608年)、文林郎である裴世清をその答礼使として派遣した。その時の報告を以下に示す。(ダイ國を以下では倭國と書き換える。)


原文:

倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。


~途中省略


明年、上遣文林郎裴世清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 

訳文:

倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。


~途中省略


翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。



コメント


秦王国は周防灘を挟んで防長二州と豊国辺りで、秦王国の中心は応神天皇、神功皇后とともに東遷し、豊前国に残った氏族が宇佐神宮を祀ったのであろう。現在でも、方言が極めて似ている。


秦氏、土師氏、応神天皇、忌宮神社、宇佐神宮


下関市梅ケ峠の調査(応神天皇、秦氏の砦)


梅ケ峠、渡来人秦氏の砦


神功皇后、応神天皇時代の秦氏のみならず、多くの民族が日本に渡来したようで、古くは紀元300年より前からあったようで、シュメール人のペテログラフが下関で発見された。ここ彦島八幡宮の地は関門海峡と響灘に挟まれ、仲哀天皇、神功皇后時代からの防衛基地でもあった。また、真北の北浦海岸の北端に東門鎮護、住吉八幡宮が鎮座していた。


神功皇后時代の響灘辺りの地名


下関が秦王国である証拠


「竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。」と隋書が記述するように、九州はまだまだ倭に属さない危険地帯であり、倭の本土防衛は穴門までで、九州防衛は太宰府の責任と考えた方が理解しやすい。つまり、倭の国の正史である日本書紀では穴門国の防衛システムは秘密とし、九州、太宰府の防衛システムは記述して夷狄にも公開した理由も理解できる。


下関の梅ケ峠の砦は高天原であった


すでに北九州から出雲辺りは秦王国であった。初期秦王国の範囲


下関市秋根から綾羅木あたりが秦王国の首都だった(参考)


秦王国の人は華夏(中華)と同じとしているが、説明を受けた隋の使者の文林郎の裴世清は隋の支配階級の北方遊牧民族の鮮卑の一族であり、漢民族と秦氏を混同していたと考えられる。