猿田彦、天狗、天、あま、海人 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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猿田彦(サルタヒコ)は天津神(天孫)と国津神の間を取り持つ神で、鼻が長く、天狗サルのような顔であった。古事記および日本書紀の天孫降臨に登場する。古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と書く。猿田彦命が筑紫の日向の高千穂の峯に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を御案内した。


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猿田彦の石碑

天狗のような顔をして新羅から渡来した猿田彦はインドの天部の神の恵比寿天と習合した。恵比寿天は出雲の国譲りに出て来る事代主命で、大国主命の養子であり、命の代理で天孫と交渉した。各地の神社に祭られている道祖神として目につく、さらに事代主命は武内宿爾(安曇磯良、蘇我氏の祖)でもある。

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(wikiより)


参考

日本における初出は『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧のが言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」と!飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後は文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる(wikiより)。すなわち、天狗は中国以外の概念が伝わった。

秦氏の渡来は、日本書紀によれば、応神天皇の283年に弓月君が百済から127県の1万8670人を連れて来たという。弓月君の名前は新撰姓氏録では融通王と呼ばれ、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国から来た。この近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山がある。この山が「天狗」のルーツではないかと云われ、ハン(Khan)は族長の称号であり、テングリ(Tengri)は天神と言われる(参考)。キルギス語: Kan Tengir、ウイグル語: Khan Tengri(天の王)、中国語: 汗騰格里峰カザフ語: Kan Tau(血の山)という(wikiより)。

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ハン・テングリ山は、中国新疆ウイグル自治区西端に位置する天山山脈第2の高峰で,カザフスタン、キルギスとの国境にある。標高6995m,漢字では汗騰格里峰。1931年ウクライナ隊が初登頂,南西方のポベダ峰(7439m,中国名は勝利峰)が発見されるまでは,天山山脈中の最高峰とされていた(コトバンクより)。

モンゴル族の至上神テングリtengriは同時に天空を意味し,今日においてもアルタイ系民族,アジア極北民族,フィン・ウゴル語族系諸族の多くは,天空と至上神とを同じ言葉であらわしている(コトバンクより)。

テングリ教は古代宗教であり、とりわけフン族やモンゴル人を始めとする中央アジアの人々と深い関係がある。テングリ教は、天上神テングリと大地の女神エイエに対する信仰を基本としている。しかし、聖職者などはおらず、他者に布教するようなこともないため、はっきりとした教義を持たないことで知られる。テングリ教の信徒は周囲の環境と調和することに重点を置き、地上の資源を神聖なものであると考えている。特に水は、テングリ教の信徒が多くいた中央アジア大草原では貴重であったこともあり、より神聖視された。テングリ教の信徒は現在もアジアの一部にいると考えられているが、その正確な人数は分かっていない(参考)。

{F5E64B5A-6C9B-4C1E-AE11-300156B77426:01}テングリ(天)の歌と日本の長持唄がよく似ている(ユーチューブ、音声が出ない場合はブラウザで再生して下さい)。

天狗は日本で山の神で、日本には仏教が伝わる前から山岳信仰があり、天狗のその姿は山伏によく似ている。また、山伏の姿はユダヤ教徒の姿ともよく似ている。天狗は秦氏の弓月国あたりの中央アジアの言葉でも山の神を意味する。九州の求菩提山(くぼてやま)と京都の愛宕山(あたごやま)が天狗で有名である(参考)。



あま、あめ(天) [ama、ame]

「あま[ama]」が「あめ」の古い形。[a]のいる絶対の場[ma]。タミル語<amar>、サンスクリット語<amara>に起源。サンスクリット語からタミル語に入ったと考えられる。人間の住む世界の上にある神の世界のこと。「そら(空)」が何もないことを意味するのに対している。この意味で「あめ(あま)」の対語は「くに」である。「あめ(あま)」が「空」の意味を強めるにつれ、「つち(地)」の対語と考えられるようになる(参考)。


あま(海人)

古文献に海人、海部、蜑、白水郎などと記す。海を主なる生業の舞台とし、河川、湖沼で素潜(すもぐ)りする漁民をはじめ、釣漁、網漁、塩焼き、水上輸送・航海にたずさわる人々を、今日いう男あま(海士)、女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する。

[系統と分布]

日本民族の形成過程のなかで、かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり、インドチャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。前者は、古典にみえる阿曇(あずみ)系およびその傍系である住吉系漁労民で、中国南部の閩越(びんえつ)地方の漂海民の系統をひき、東シナ海を北上し、山東半島から遼東半島、さらに朝鮮半島西海岸を南下し、多島海ら済州島方面を経て玄海灘に達する経路をたどったと推定される(コトバンクより)。宗像系漁労民はインドネシアから台湾、南九州の隼人族を経て宗像を根拠地とした(参考)。


事勝国勝長狭