事勝国勝長狭、塩土老翁 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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事勝国勝長狭またの名を塩土老翁(シオツチノオジ)とは、現在の宗像市及び福津市あたりに住した宗像氏の長、又は安曇氏の長(武内宿禰)であろう。前者は瀬戸内海に進出した隼人族のみの主張であり、後者の方が各種の説と辻褄が合う。


参考

『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある(wikiより)。

天孫瓊々杵尊御降臨の際、大山積大神、またの名、吾田国主事勝国勝長狭命は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられる(参考)と、瀬戸内海に進出した隼人族は主張した。すなわち、命は宗像氏の長である。吾田国は宗像、津屋崎、相島辺りである(参考)。

事勝国勝長狭に関し、北部九州で「勝」 の字が付くのは、安曇氏の勢力圏の志賀島の勝馬、津屋崎の勝浦、宮地嶽神社の祭神(主神 神功皇后、従神 勝村大神 勝頼大神)(参考)。

ニニギ命が最後に宮を建てた国が刺国であった。津屋崎の地名由来は神功皇后の伝説で神功皇后がこの地で杖をついて休まれたことから「杖刺し→津屋崎」となった。刺国大神とは、事勝国勝長狭であり、宮地嶽神社の勝村大神、勝頼大神である(参考)。


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縫殿神社、奴山

宮地嶽神社の勝村、勝頼両神は秦氏の一族で、織物を司る勝部であり、津屋崎の縫殿神社(福津市奴山)で勝村、勝頼の両神を通じて、阿部氏(安曇氏)と秦氏、勝部氏、吉師が重なる。縫殿神社の傍には「酒多神社」。少彦名命と秦氏の秦酒公には「酒神」が欠かせない(参考)。この辺りは、宗像氏の勢力圏でもあり、古墳群(新原・奴山古墳群)があり、アマツヒタカミヒコホホデミノミコトの墓がある。ミコトの母は宗像氏の娘、木花咲耶姫、妻は安曇氏の娘、豊玉姫である(参考)。そして宮地嶽神社の主祭神、「阿部丞相」は神功皇后の三韓征伐従い功があったという。丞相(じょうしょう)とは安曇氏の長、「武内宿禰」のことである(参考)。注意: 宮地嶽神社の祭神は、現在、神功皇后、勝村大神、勝頼大神となっているが諸説ある(参考)。

事勝国勝長狭を猿田彦と見る説(参考)があり、確かに同じ役割を果たした。すなわち、猿田彦は武内宿禰であった(参考)。少彦名命、恵比寿神、事代主命は同一で武内宿禰である(参考)。