日本海側と邪馬台国の首都、纒向を結ぶ道 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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左上⭕️が出雲、中央上⭕️が投馬国、中央下⭕️が野見宿禰の墓、右上⭕️が敦賀、右下⭕️が邪馬台国の首都の纒向

日本海側から邪馬台国の首都、纒向までの道程、魏志倭人伝での投馬国(中央⭕️)からの陸路は現在の高速道沿いあたりか!淀川河口で河内湖を舟で渡る必要があり、京都盆地経由の陸路も考えられる。

敦賀(右上⭕️)も日本海側の窓口であった。ツヌガアラシトが邪馬台国を訪れたり、神功皇后が生まれた所で、琵琶湖経由で邪馬台国と交流したのであろう。

卑弥呼は投馬国の籠神社で生まれ、邪馬台国内、すなわち宗像の高天原や纒向、伊勢神宮をこのルートで行き来したと考えることは、最短距離となり自然である。

ちなみに、出雲からのルートも高速道に大体沿っていよう。グーグルマップ上の赤線は荒っぽいが、高速道の白線に沿っていると考え欲しい。中央下⭕️は「たつの市」のつもりである。実は、ここに土師氏、毛利氏の祖先、野見宿禰の墓がある。宿禰は天孫出雲氏の祖・天穂日命から始まっている。

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大阪湾から纒向までは、河内湖の西側、上町台地を経由して、大和川を遡ることになる。

応神天皇や仁徳天皇(ワケ系王朝)が大和盆地を出て、大阪湾岸、古市古墳群や百舌鳥古墳群に巨大古墳を築造するが、交通路的には合理的である。また、瀬戸内海航路を利用するなら、なおさらである。


参考

日本における道路建設が始まったのは、5世紀だとする記録(日本書紀)もあるが、詳しくは分かっていない。実際に、古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多く見られる(wikiより)。ちなみに、中国自動車道及び接続する高速道は中国山地の断層に沿った谷間に建設され、はぼ間違いなく古代のものと一致すると考えられる。


たつの市内の野見宿禰神社敷地内に野見宿禰の塚がある。龍野公園内にある境内には明治大正時代の力士84名および行司が寄進した玉垣が残る。この地で病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされている(wikiより)。