吉備国、すなわち岡山市あたりに巨大な国があった。温羅(うら)と呼ばれる鬼が住んでいた。彼は吉備国に製鉄技術をもたらした民で、この温羅と吉備津彦との戦いが桃太郎伝説である。温羅の城が例の鬼ノ城である。
崇神天皇の御世(崇神天皇10年)、すなわち邪馬台国時代、四道将軍として遣わされた大吉備津彦命が吉備国を平定し、神として崇められた。古墳時代中期には全国で4位の造山古墳を作っている。
古代邪馬台国の女王、卑弥呼とは大吉備津彦命の姉である大倭迹々日百襲比賣命と云われている。
参考
吉備津彦神社 →朝日の宮と呼ばれ、太陽信仰の神社で、倭迹迹日百襲姫すなわち卑弥呼も祀られている
温羅 (うら)
「吉備冠者」「鬼神」とも。
鬼ノ城を拠点とした鬼。出雲地域から飛来した、渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わる。
阿宗神社(あそうじんじゃ)、総社市奥坂
温羅の妻の阿曽媛の関係地という。一帯の阿曽郷からは古代製鉄跡が多数発掘された。
白村江の戦いの敗戦後(663年)、北九州から畿内に至る瀬戸内海に、防衛の為の朝鮮式山城を建設したことと地名が日本書紀に記されているが、鬼ノ城は出てこない。鬼ノ城は瀬戸内海の児島半島(当時、吉備の児島)の北の穴海の中の奥まった入江の陸上の山上にあり、大陸からの侵入軍に対処出来るか疑問がある。5から7世紀の築造との評価もあり、白村江の戦いを考慮する必要はなかろう。起源を温羅の砦とする可能性は捨て切れない。
3世紀の邪馬台国時代について
神武東征の神話では、岡田宮で1年過ごした。さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした(wikiによる)とある。すなわち、東征途中の国々を征服する手間がかかったことを示唆している。いかに、吉備国が既に大国であったか分かる。
瀬戸内海沿岸には、3世紀、邪馬台国に対抗出来る国が既にあったことを示唆している。
四道将軍の派遣先
四道、海沿いに邪馬台国に服さない大きな国があったのであろう。ただし、山陰側は初期秦王国で邪馬台国の一部であった。山口県は山陽道に入っているが、初期秦王国の首都であり、対象外である。九州は豊前、宗像あたりを除き、独立国家群であろう。
『日本書紀』によると、崇神天皇10年にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の律令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す(ただし将軍の派遣先からは丹後国、但馬国は除く )。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年、地方の敵を帰順させて凱旋した(wikiより)。
倭国では、大きな戦乱は3回あった。第1回は2世紀後半の倭国の大乱、2回目は3世紀中ごろの邪馬台国と狗奴国の紛争、3回目は卑弥呼の死後直後の倭国内の戦乱である(参考)。四道将軍の派遣はこの3回目の卑弥呼の死後にあたる。
倭国大乱は畿内と北部九州の二大勢力の戦いである。九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで広がる高地性集落が、倭国の大乱が全国的な戦乱であったことを物語っている。銅剣、鉄器などの武器の分布から戦場は主に北九州であろう。
狗奴国の位置は、九州説、大和説とも色々ある。しかし、南すなわち東方向と考える大和説では以下は興味深い: 『魏志倭人伝』は女王国に属さない、狗奴国が在ったことを伝える。邪馬台国は狗奴国と激しい戦いを演じ、灘升米は狗奴国と戦っていた。その難升米(なしめ、なしとめ)、すなわち梨迹臣(なしとみ)が居た場所は滋賀県伊香郡木ノ本町である(参考)と言う、北陸説である。狗奴国と考えるのが、陸(くが・玖賀)、あるいは北陸(くぬが)と呼ばれた国である。木之本の北、すなわち現在の北陸地方に在った国である。