北九州の吉野ヶ里遺跡と全く同じ歴史変遷をたどっている。すなわち、弥生時代中期以降、邪馬台国となる渡来人との攻防戦に入り、倭国大乱に入る。古墳時代に入ると環濠を潰し、邪馬台国、すなわち大和政権に従う在地豪族として発展していった。
卑弥呼が即位している間は倭国は平和であった。すなわち、唐子鍵遺跡も北九州の吉野ヶ里遺跡も弥生時代後期は戦乱にあり環濠を掘り、卑弥呼の即位前、70~80年間は倭国大乱にあった。卑弥呼が亡くなった後、247年頃からの古墳時代は大和政権に従った。
弥生時代初期からの銅鐸文化は中期以降は山陰地方から撤退し、古墳時代に入ると消滅する変遷が理解できる。記紀神話の神武東征は崇神天皇の邪馬台国(北九州から大和まで)政権の確立であろう。
弥生時代後期、山陰の秦氏系渡来人を除く、他地域に入植した秦氏系渡来人は稲作弥生人と摩擦を起こし、大和の唐子鍵遺跡(銅鐸文化)や北九州の吉野ヶ里遺跡(銅剣文化)のように、稲作弥生人たちは環濠集落すなわち要塞に暮らすようになる。
参考
① 弥生時代前半の大規模水田跡、平城京跡
朝日新聞社、2016.6.24
② 弥生遺跡の変遷
遺跡は、およそ次の5段階に変遷しています。
ムラの形成(弥生時代前期)
やや小高い所を選んで人が住むようになります。遺跡の北部、西部、南部の3ヶ所にムラが形成されたようです。
ムラの分立(弥生時代中期初頭)
3ヶ所に形成された居住区が、それぞれ周りに溝を巡らせて「環濠集落」の形をとります。西側の地区では大型建物も建築されました。
ムラの統合(弥生時代中期)
3ヶ所の居住区が統合され、全体を囲む「大環濠」が掘削されます。大環濠で囲まれたムラの大きさは、直径約400mと考えられます。その周りを幾重にも溝が取り囲んでいました。中期後半には、楼閣をはじめとする建物、鹿、人物などの絵画を土器に描く風習が広まりました。
ムラの発展(弥生時代後期)
中期末の洪水で環濠の大半は埋没しますが、すぐに再掘削が行われています。環濠帯の広さも最大規模となります。後期のはじめには、ムラの南部で青銅器の製作が行われました。
ムラの衰退(古墳時代前期)
弥生時代中・後期には大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小します。環濠の一部は再掘削されますが、 井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少します。
ムラのその後(古墳時代以降)
遺跡の中央付近で古墳時代後期の前方後円墳がみつかっています。この時期にはムラは消滅し、墓域となっていたようです。 中世には、在地武士の「唐古氏」「唐古南氏」「唐古東氏」の居館が遺跡内につくられます。唐古南氏の居館周辺は現在の鍵集落へと発展していくようです(参考)。