出雲地方は大和と違う古墳をつくった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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弥生時代中期以降、出雲地方を含む山陰は後の邪馬台国や大和政権と同族であった。また、大和、北九州、瀬戸内海の各地域のような在地勢力が無く抗争を起こす事がなかった。銅鐸、銅剣、銅矛を埋納し、自由な文化を花開かせ、古墳時代になっても前方後円墳なんか作る必要が無かった。


参考

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玉造にある「花仙山」では良質なめのうが採れ、その付近ではめのう細工の職人達が集落を作り、暮らしていたと言います(参考)。


高句麗・新羅には方墳が多い、出雲の方墳のルーツのひとつは新羅か!出雲神話の国引きに、新羅から土地を引っ張って来ている(参考)。


五世紀を中心とする古墳時代中期、出雲の豪族たちは一辺50mを超える巨大な方墳、洗練された技術を持つ最古級の人物埴輪を作るなど他地域の豪族とは異なる性格を持っています。最近の様々な調査研究から、その性格はヤマト王権に列する「直参」的なものであったのではないかといわれています(参考)。  たたら製鉄を専門とする九州勢力が作った(2019.3.20)。後、装飾古墳に変わる。

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弥生時代中期以降に出現した出雲の独自の古墳形式、四隅突出墓、古墳時代以降も独自な方墳を発達させた。