倭国大乱と弥生時代の終焉 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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倭国大乱は、弥生時代後期の2世紀後半に全国的に起こったとされる争乱である。中国の複数の史書に記述が見られるところの倭国とは当時の中国と国交のあった倭奴国を盟主とする北九州である。倭国は弥生時代後期の銅剣出土地域であり、鉄器を含め高度な武器を持ち、邪馬台国とは特に激烈な戦争であったであろう。

80年間、戦乱が続き西暦187年頃に邪馬台国(北九州では女王国)の卑弥呼が北九州の倭国王になったとして、西暦107年頃から倭国大乱になったことになる。

すなわち、古墳時代を担う渡来人が響灘沿岸に渡来し、宗像地域にも目立ち始め西暦107年頃から先住民である弥生人と戦争になった。畿内にも同様に入植して戦争になり、崇神天皇が畿内をまとめ、纒向辺りに首都とする邪馬台国を打ち立てた。宗像から畿内に渡る邪馬台(ヤマト)国である。ただし、中国地方の初期秦王国は身内であり戦乱になっていない。

卑弥呼が倭国王(北九州の盟主である女王国の王で、邪馬台国の北九州地域の王)に西暦187年頃就任し、西暦247年に亡くなったとして60年間、王位にあったことになる。この時点で弥生時代が終わったとすると、西暦107年から140年間の弥生時代から古墳時代開始までの助走期間があり、この間に古墳の形式が進化し、卑弥呼の箸墓古墳が前方後円墳の第一号として完成したのであろう。

倭国大乱の前兆を考えれば、まさに弥生時代の後期と定義されている1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃までに粗く一致している。


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弥生時代末期、前方後円墳の祖型(赤)が大和から北九州に向けて進化しながら分布する(参考)。四隅突出墓は東の越国に進出、前方後方墳も海岸沿いに東進。

前方後円墳の祖型が大和から西方向に進化が進んだと言うことは、北九州が最期に鎮定されたことになる。山陰は影響が無く独自な墓制を維持していることは、大乱に巻き込まれていなく平和なことを示す。さらに、前方後方墳が東海道、北陸道に進化しており、後に崇神天皇が四道将軍を派遣した地域と重なる(参考)。

: ただ気になるのは、4世紀中頃までの間に女王国を取りか囲む宗像市や福津市に古墳や遺跡などが無く、100年から150年のミッシングリンクがある。この地域は紛争地の最前線で古墳築造の余裕が無かったのであろうか?それとも日出ずる国に埋葬を希望したのか!卑弥呼、台与、神功皇后の墓は大和に作られている。九州で亡くなった仲哀天皇もご遺体を大和まで送っている。現在の宗像大社の周辺には古墳やその他の遺跡は無く、名児山を越えて西側の勝浦など周辺にあることからも、女王国は古墳などの無い神聖な地域が領土であったのであろう!


参考

倭国(北九州)は倭奴国の男王を盟主としていたが70~80年間の相争う状況が長く続いた。邪馬台国の女子を倭国王とすることで倭国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の歴史書『三国志』(魏志倭人伝)や中国の正史『後漢書東夷伝』に記述されている。以下、wikiから再掲する。

『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)

「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」

其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。

『後漢書』卷85 東夷列傳第75

「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」

桓帝・霊帝の治世の間(146年-189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭

「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王 彌呼無夫壻 挾鬼道 能惑衆」

後漢の霊帝の光和年間(178年-184年)、倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、卑弥呼という一人の女子を共に王に立てた。(卑)弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。

隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國

「桓靈之間其國大亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子 名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立爲王」

桓帝・霊帝の間はその国(倭国)が大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。ここに於いて国人は共に王に立てた。

北史』卷94 列傳第82 倭國

「靈帝光和中 其國亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子 名卑彌呼 能以鬼道惑衆 國人共立為王 無夫」

霊帝の光和年間、その国(倭国)は乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。国人は共に王に立てた。(卑弥呼に)夫は無かった。


女王国の領土

北九州の女王国と邪馬台国

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宗像三女神と三人の女王

倭国と日本国

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倭国大乱の戦場

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