北九州の糸島半島の現在の糸島市に律令制時代、怡土郡(いとのこおり)、志摩郡とがあった。魏志倭人伝では、怡土郡は伊都国、志摩郡は斯馬国として表記された。
近畿では三重県に伊勢、志摩が隣り合っており、北九州の伊都(怡土)、志摩との関連が伺える。例えば、地名学者の鏡味完二氏によれば、北九州において海の方(北部)に怡土、志摩とあるのを、近畿では伊勢、志摩と対応させると、山の方(南部)へは耳納、日田、熊とあるのが近畿では(東方向に)美濃、飛騨、熊野(ちょとやぶにらみか!)と類似している。さらに北九州の志賀島が伊都国の東方向となるのに対し、近畿の滋賀は伊勢の北方向にある。
すなわち、近畿の伊勢志摩辺りから見た各地の地名を90度時計周りに回転させ、縮小させて北九州内に貼り付けている感じになる。この地名を使って魏からの使者を案内しており、魏志倭人伝で邪馬台国が南方向と誤解したのも、邪馬台国(宗像の女王国)の案内者の策略だった。こうしておけば、将来、日本国内の情報が他国に漏れても、北九州内の出来事と思われることになる。なんと、邪馬台国の官僚の頭の良いこと!素晴らしい!
参考
志摩について、大宝2年西暦702年に作成された「筑前国嶋郡川邊里」という場所の戸籍が正倉院に残っている。この戸籍に「嶋郡」とある。現在の志摩は、元々はこの地は「嶋」の意味で付けられたことを示している(参考)。