参考
福岡県糸島郡付近に比定される弥生(やよい)時代の国。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「女王国より以北にはとくに一大率(いちだいそつ)を置き諸国を検察す。諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す」とあり、邪馬台(やまたい)諸国のなかで政治、外交上重要な地位を占めていた。戸数は1000余戸あり、長官を爾支(にき)、副官を泄謨觚(せもこ)、柄渠觚(ひここ)といい、帯方(たいほう)郡使が常駐。この地にある三雲(みぐも)王墓は前1世紀中ごろと推定されるほか、井原(いはら)、平原(ひらばる)遺跡などで原始王墓がみられる。また、南朝鮮系支石墓が多く散在し、志登(しと)支石墓群からは縄文晩期の夜臼(ゆうす)式甕棺(かめかん)、朝鮮系磨製石器などが採集され、縄文晩期ころより朝鮮との交渉が確認される。奴(な)国とともに漁業、交易に活躍し、邪馬台国以前から繁栄した古代国家である。[井上幹夫](コトバンク)
【弥生時代】
伊都国の王墓からの出土品であり国宝に指定されている銅鏡、アクセサリーなどを中心に展示しています。中でも平原王墓から出土した内行花文鏡は国内最大で迫力満点、必見です。平原王墓以前の王墓である三雲南小路遺跡や、重臣の墓といわれる井原ヤリミゾ遺跡の出土品も展示しており、きらびやかな金銅製品や巨大な甕棺などは見応えがあります。
古代「伊都国」の王都があったとされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡(みくも・いわら)で出土したガラス小玉(弥生時代後期)に、国内では極めて珍しい黄色と紫色の小玉が含まれていたことが分かった。
【古墳時代】
西堂古賀崎古墳(にしのどうこがさきこふん)から出土したきらびやかな金銅製刀装具、馬具、装飾付須恵器、砂魚塚古墳(はぜづかこふん)から出土した装身具類、ワレ塚古墳から出土した埴輪類などを展示(参考)。
筑紫の伊都の県主(あがたぬし)の祖・イトテが天皇が行幸したのを聞いて、五百枝(いほえ)の賢木を抜き取って、船の艫舳(ともへ)に立てて、上の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島に迎えに来ました(参考)。
五十迹手 いとで: 日本書紀にみえる豪族筑紫(ちくし)の伊都県主(いとのあがたぬし)の祖。仲哀天皇8年筑紫に行幸した天皇をでむかえ,伊蘇志(いそし)の名をあたえられた。それがなまって伊覩(いと)(伊都)になったとつたえる(コトバンク)。
いそ・し 【勤し】形容詞シク活用
活用{(しく)・しから/しく・しかり/し/しき・しかる/しけれ/しかれ}
勤勉である。よく勤める。
出典万葉集 七八〇
「いそしき奴(わけ)と褒めむともあらず」[訳] 勤勉な若者だとほめてくれるとも思えない
(参考)
いと[糸、伊都・恰土(福岡県前原市)](Heb.)העד,IDA, edah, ユダヤ人共同体、証人、または(Heb.)עד,ID, eda, 証人、立会人
しま[志摩、福岡県糸島郡]シマ[シヴィ](Heb.)סב, SV, siu, 糸 (参考)
志摩について、大宝2年西暦702年に作成された「筑前国嶋郡川邊里」という場所の戸籍が正倉院に残っている。この戸籍に「嶋郡」とある。現在の志摩は、元々はこの地は「嶋」の意味で付けられた(参考)。
高祖神社、糸島市、伊都国の総鎮守で、秦氏系渡来人の氏神
由来
高祖神社は彦火々出見尊、玉依姫命、息長足比女命を祀っており、『三代実録』によると元慶元年(877年)の項に「筑前國 正六位高礒比賣神に従五位下を授く」と記されているのが髙祖神社のこととされていることから、1100年を超える悠久の歴史 を有し、かつての伊都国の総鎮守(のち怡土庄一の宮)として数多くの崇敬を集め今日に至っております(参考)。
宗像大社は高天原、女王国
奴国について