磐井の乱はあった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

九州王朝論者は筑紫君磐井の乱は無かった!と言う。そうで無いと困る。白村江の戦いの後まで、九州王朝が存続しないと小説の種が無くなる!とのことで、苦労している。

しかし、糟屋屯倉跡の発掘やお隣の宗像地方の考古学的事実から、筑紫君磐井の乱はあり、大和政権から鎮圧された。

{6644A213-DC6A-47A7-B385-039CC2CBFC53:01}
石馬(岩戸山古墳出土)、岩戸山歴史資料館展示(wikiより)


参考

磐井の乱(
いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された。胸形(宗像)王は、「磐井の乱」以降、その地位は格段に向上した。654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。 天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。 宮地嶽古墳の被葬者が宗像徳善と云われている(
参考)。

筑紫君葛子(くずこ)は、父の罪に連座して殺される事を恐れて、粕屋(かすや)の屯倉(みやけ)を献上して、死罪を逃れるように願い出ました(参考)。

日本書紀、古事記、筑後国風土記、先代旧事本記の国造本記の全てが磐井の乱があったとしている(wikiより)。

九州王朝論者の主張
筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である(wikiより)。
反論
九州内の内輪揉めの結果、お隣の宗像徳善の地位が向上した理由を論理だって説明してほしい。地方である九州内の騒乱を大和政権は日本書紀に書く必要は無い。例え九州王朝があったとしても、この王朝の歴史を引き継ぐ必要はない!自分たちの歴史を堂々と国内外に知らしめることに腐心する。また、九州王朝の内部の歴史を詳しく知っていたとすると、誰が教えてくれたか説明して欲しい。記紀の中で書かれた九州内の記述は、大和政権が九州に押し付けたと考えた方が合理的である。