ヤマト政権と九州支配 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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西暦527年の筑紫君磐井の反乱を物部麁鹿火(あらかい)に『お前が行って討て、長門以東は朕之を制す。筑紫以西反乱汝之制せよ』と言って、ヤマト政権は反乱を鎮圧した。筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上して死罪を免れた(参考)。この後、ヤマト政権は九州の博多に那津宮家を造らせたと日本書紀にある。

すなわち、当時、九州は宮地嶽神社(筑紫の日向)付近の糟屋屯倉以東、岡の水門、洞海湾あたり、豊前国、本州は穴門から東が、応神天皇の東征以降、秦氏のヤマト政権と推定される。秦氏の居住地分布がそのまま、ヤマト政権の勢力圏とみて差し支えない。

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秦氏の居住地分布(ヤマト政権の勢力圏、引用)

神功皇后時代は博多湾内の箱崎宮辺りから、穴門国の向津具半島まで、西暦923年以降は関門海峡から向津具半島辺りの島戸をヤマト政権自らの本州の直轄防衛線とした(参考)。すなわち、九州本土の防衛は九州現地政権が責任を持たされたことがわかる。西暦663年、白村江の戦い以降、九州の防衛のため大宰府を内陸(現在の大宰府跡)へ移し、水城や朝鮮式山城を建設し、防衛をアピールした。


参考

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された。胸形(宗像)王は、「磐井の乱」以降、その地位は格段に向上した。654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。 天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。 宮地嶽古墳の被葬者が宗像徳善と云われている。

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糟屋屯倉、福岡県古賀市美明

糟屋屯倉より南は秦氏の勢力範囲外か?