太宰府、水城、連絡高速道路、朝鮮式山城が白村江の戦い(663年)の後に作られ、100年後には使われなくなったとか!
実は見せかけの防衛拠点であった。本当の拠点なら秘密にする。派手派手しく作って、日本書紀に書いて大々的に宣伝する防衛拠点はありません!本当の防衛拠点は本州で、九州は如何でも良かったのです。第一、外国人が出入りする鴻臚館があり、軍事機密の施設を置けません!
逆に誘き寄せの施設でした!魏志倭人伝ではヤマトは南方向にあるが、たとえ、侵略軍が太宰府を占領し、さらに南下しても熊襲や隼人しかおらず、ヤマト朝廷にとって好都合であった。
元寇の時(西暦1274年、1281年)、わざわざ2回とも夏場に北九州を襲ったのも、防衛戦略通りでした。先兵は朝鮮軍であったが、日本列島の地理を知らなかった!知っていれば、冬の季節風と対馬海流に乗って日本海側の山陰海岸経由で畿内を襲うべきである。
本州の防衛拠点は実は秘密にしており、下関の北浦海岸が本当の防衛線でした。日本書紀では、神功皇后が三韓征伐から帰国した下関の吉母も今も秘密であり、九州の博多湾の奥地の宇美八幡宮まで行って、応神天皇まで生んだことにしている。
即ち、太宰府は見せかけの人口都市で、実質、利用されていなかったと考えられる。元々、卑弥呼の時代、卑弥呼は宗像の女王国におり、ここで外国の賓客をもてなしており、宗像以西の鴻臚館も太宰府も存在していなかった。
白村江の戦いの後、朝鮮式山城が築かれた。しかし、太宰府辺りの施設は日本書紀などで宣伝されたが、本州の施設は秘密であった。長門城は名前は出てくるが場所は秘密であった。
参考
大野城について
九州王朝論の著者の文章を参考にする。
太宰府から鴻臚館は、北西に16kmの位置にあるが、近年の発掘調査で、両側に幅2m深さ1mの側溝が完備された、幅員10mの一直線の道路で結ばれていたことが確認されている。これはまさに古代の高速道路であり、アジア大陸につながる国際道路だったのであるが、遅くとも700年代末には既に廃道になっていたことも、発掘調査の結果から解っている。
もし本当に、太宰府が白村江の戦いの敗戦後に造営されたものであるとするなら、この高速道路も、太宰府や水城(みずき)とほぼ同時期に造られたことになり、そしてわずか100年たらずで消滅したことになる。これはどうにも不自然さが拭えない。
水城は、福岡平野(博多湾)から太宰府への進入を遮断するように築造された、全長1.2km、高さ13mの堤であるが、古代の高速道路は博多湾から太宰府への進入を容易にし、太宰府防衛上の観点では、築造目的が明らかに相反する。この二つの施設が、同時期に造られたとは考えにくい。
太宰府が、西暦470年頃に倭王武によって造られた時、卑弥呼の時代から外国使節の客館としてあった施設が、倭国筑紫王朝の「鴻臚館」となった。そして太宰府と鴻臚館は、当時としては超一級の高速道路で結ばれ、外国商人や使節団もこの道を往来したに違いない。しかし首都が奈良に移ってのちは、この道路は必然的に使われなくなり、まぼろしの古代国際高速道路となった。
白村江の戦い、唐と新羅の連合軍によって滅亡した百済の再建と筑紫国の権益を守るために、筑紫国王は大和国からの援軍も加えて出兵するが、663年8月27・28日の白村江(朝鮮南西部の錦江河口付近の古名)での海戦で惨敗する。敗戦の主原因は大和国の唐・新羅への内応が十分に考えられる(参考)。
太宰府の遺跡だと現在展示してありますが、名前は朱雀門とか、紫宸殿とか、大裏とかの名前が点々と残っている(参考)。