古代の太宰府の生活 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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古代の太宰府の生活はお公家さんには耐えられないくらい辛い環境であったようだ!「我慢して蓄財して帰京が許されるのを待つ」とか、それなりに現地の生活をエンジョイ出来ないことはないのでは!と思われるのだが!、それが出来ない過酷な環境がありそうです。

九州赴任そのものが遠島(流刑地)の扱いのようですね!

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参考

① 年表

663年、白村江の戦いの敗戦
664年、水城の築造
665年、大野城など築城
665年、官家を移し、太宰府ができる
667年、筑紫都督府
671年.、筑紫太宰府
701年、倭国から日本国
              礎石を使った建物になる
              太宰府に向かう道は廃道
740年、藤原広嗣が左遷から反乱
742年、廃止
745年、再開
806年、太宰帥には親王、大宰府に来ない
941年、藤原純友が放火、再建(参考)
1158年、平清盛、大宰大弐、赴任せず


② 菅原道真公の太宰府生活、その1

901年、大宰府へ左遷された菅原道真の生活はかなり悲惨で、床が腐って抜けたり雨漏りしたりする家に住まされ、毎日の食事もまともに食べられない状況だったそうです。そしていつの日か疑いが晴れて都に戻れる日を夢見ながら…
去年今夜侍清涼
去年の今夜、清涼に侍す
秋思詩篇獨断腸
秋思の詩篇、独り断腸
恩賜御衣今在此
恩賜の御衣、今此処に在り
捧持毎日拜餘香
捧持して毎日余香を拝す
…という漢詩を詠んだりする日々を送ります。またある時は近くにある「天拝山(てんぱいざん)」に身を清めて登り、自分の無罪と国家の安泰を天に祈ったとも言われ、この時に神様から「天満大自在天」の称号を得たとも言われています(参考)。
903年、道真公、病没


③ 菅原道真公の太宰府生活、その2

この命からわずか6日後に道真は大宰府へ向かう。道真には多くの子供があり、正確には分からないが標準的な系図によれば男11人、女3人の子供が挙げられているが、そのうち、大宰府に連れて行くことが許されたのは幼い子供だけであった。京の家では妻と年長の娘たちが留守を守ったが、門前の木を売り、在地の一部を賃借しするなど、留守宅の生活もしだいに苦しくなっていった。 

よく勘違いされているが、この大宰権帥自体は、平安末期まで実質的な大宰府のトップで、貴族の憧れの官職であった。しかし道真の場合は「大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)」と呼ばれるもので、名前だけの高級官人左遷用ポストとして使われたものであった。このため大宰府の人員のうちにも数えられないばかりか、大宰府本庁にも入れてもらえず、ずっと南のぼろ屋で侘び暮らしを強いられていた。「都府楼(大宰府本庁)はわずかに瓦が見えるばかり、観世音寺(大宰府に附属する寺)はただ鐘の音が聞こえるだけ」と漢詩に詠んだのも、遠くに追いやられていたためである。道真は大宰府に流されると、幾度か天拝山に登って天を拝し、自らの無実を訴えたと言われる(参考)。


④ 菅原道真公の太宰府生活、その3

菅公の配所は大宰府政庁の南、約2キロ、現在、榎社と言う神社がある田圃の中にはありました。左遷とは言え大宰権帥の役職です。世の通念からすれば、それ相応の用意がされていたと思いがちですが、ところが菅公が与えたられた官舎は見るに耐えない、あばら家だったそうです。菅公が大宰府に配流されてから、日々、宇多上皇の恩顧を偲びつつ、ひたすら詩作と読書に明け暮れていただろうと想像されるそうです。菅公には失礼ですけど、大宰府の役人たちは大宰権帥としての仕事をせず、毎日、詩作と読書に明け暮れ、泣き暮らしの生活をされて大迷惑そのものだったでしょう。もし、菅公が「負けてたまるか!」と大宰権帥の職務をバリバリこなし、成績を上げていたなら、それを認めた朝廷が菅公を都に呼び戻していたと思います。何にも職責を果たさず、引きこもって読書と詩作に没頭し、泣き暮らしでは「やっぱり、ダメな人間」と思われるのが当然です。

奈良時代の吉備真備は、時の権力者・藤原仲麻呂(後の恵美押勝)に忌避され、一度目は筑前守に補せられ筑前国の国司として左遷。二度目も大宰大弐として大宰府に左遷され、永年九州に追いやられていましたが、逆境にもめげず、各大事業をやり遂げ、その功績を認められ、造東大寺長官として都に呼び戻され、その年に起こった恵美押勝の乱の平定に軍功があったので、参議・中衛中将に任じられ、天平神護二年(766)十月には、さらに右大臣に栄進。5年後の宝亀二年(771)に右大臣を辞し、翌年十月、81歳の高齢で没しました(ヤフー知恵袋)。