太宰府はやはりハリボテの都でした | 日本の歴史と日本人のルーツ

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やはり太宰府はハリボテの都でした。


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太宰府都府楼跡

すでに指摘していた通り、やっぱり太宰府は見せかけの囮の防衛拠点であった(参考)。本当の防衛拠点なら日本書紀に書く訳はありません。すなわち、九州王朝の首都でもなんでもありませんでした(参考)。条坊制は未完成であった(参考)。

後年、太宰府に左遷された高官が反乱をおこしたり、早死にされた菅原道真公の心情が理解できます。


参考


九州王朝論の支持者のブログの前半を転載します(参考)。後半は考古学的年代評価を無視して年代を大幅に遡らせて、歴史学的な考察や根拠など無しに九州王朝があたかもあったかの様に空想して解釈している:


発掘調査の結果、現在地上に見える礎石の下、約60cmに同じような配置の礎石が確認され、さらに、その下層に掘立柱建物の柱穴があり、遺構は大別して三期からなることが明らかになった。


そこで、定説の変更になる訳だが、第一期の掘立柱建物は663年の「白村江の戦い」の敗戦後に、水城・大野城・基肄城と同時期に建造され、第二期の地中の礎石建物は大宝律令施行の702年頃に建造され、941年の藤原純友の乱により焼失した。現在地上に見える礎石は、その後に再建された建物のものということになった。


一緒に出土した瓦や土器片が、それを裏付けるらしいが、どうも俄には信じ難い。10世紀なかば以降の太宰府再建ということであれば、その国家的大事業が記録に残らないはずはない。第二期の建物にしても、大宝律令施行の702年頃の建造だとすれば、律令制のシンボルとして記録も必ず残されるはずであるが、しかし太宰府建造の記録は一切存在しない。第一期の建物にも不可解なことがある。同時期に建造されたとする大野城・基肄城の倉庫群は山頂にあるにもかかわらず、礎石建物であるが、平地の太宰府中枢建物が、掘立柱で建造されたというのも腑に落ちない。これは明らかに建造時期に相当のずれがあると考えるのが自然である。それに大野城・基肄城・水城と太宰府建造物を同時に建造しようとすれば、当時の土木技術では数万人の労力をもってしても二年や三年でできる代物ではない。ましてや敗戦直後の倭国に、それほどの労働力の創出などできるはずがない。


白村江の戦いの敗戦処理


白村江の戦いと外交交渉


901年、菅原道真公が赴任された頃の太宰府


朝倉橘広庭宮


那津から博多へ名称変更した