穴門国から長門国への名称変更はいつであろうか?527年の筑紫君磐井の反乱への対応で継体天皇の物部麁鹿火大連への勅命に長門国の名称が出てくるが、白村江の戦いの敗戦後の665年に現れる長門国が日本書紀での初見と言う。
日本書紀の編者のミスであろうか?編者が二つの事件を混同した可能性がある。正しくは665年が長門国への改名時期であろう。ともに筑紫国が舞台であることが興味深い!
長門国府は豊浦郡にあって、現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺は長門国府(長府)のそばに置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であったものとおもわれる。現在、国分寺は下関市役所の近くに移転して現存している。
ただし、本堂は第二次世界大戦の空襲に被災して鉄筋コンクリート造となっている。
参考
② 長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた(wikiより、参考)。
③ 長門国の改名の謎
④ 白村江の戦いの敗戦後、博多の地名ができた。
⑤ よく似た状況は、仲哀天皇と神功皇后の熊襲・三韓征伐がある。三つのケースとも朝鮮半島遠征と北九州の筑紫国が舞台となっている。熊襲、筑紫君磐井、筑紫君薩夜麻と筑紫国の人々が悲劇のヒーローになっていることは、トンデモ説の九州王朝説の主張も吟味して研究する必要がある。