長門国の命名時期が二回ある!どちらが正しいのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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穴門国から長門国への名称変更はいつであろうか?527年の筑紫君磐井の反乱への対応で継体天皇の物部麁鹿火大連への勅命に長門国の名称が出てくるが、白村江の戦いの敗戦後の665年に現れる長門国が日本書紀での初見と言う。

日本書紀の編者のミスであろうか?編者が二つの事件を混同した可能性がある。正しくは665年が長門国への改名時期であろう。ともに筑紫国が舞台であることが興味深い!

長門国府は豊浦郡にあって、現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。


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国分寺は長門国府(長府)のそばに置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であったものとおもわれる。現在、国分寺は下関市役所の近くに移転して現存している。


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ただし、本堂は第二次世界大戦の空襲に被災して鉄筋コンクリート造となっている。

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参考

① 日本書紀継体紀527年(継体21正和2)のことであるが、6月、近江毛野臣が衆6万を率いて任那に向かう。このとき筑紫君磐井が叛逆する。新羅が好機と捉え、磐井に賄賂を贈り、毛野臣の進軍を妨げるよう要請する。8月1日、継体天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。11月、物部麁鹿火は筑紫国御井郡で、磐井と戦った。ついに磐井を斬り、戦いは収まった。磐井の息子の葛子は父・磐井に連座することを恐れ、糟屋屯倉を献上して死罪を免れようとした(
参考)。

② 長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた(wikiより、参考)。


④ 白村江の戦いの敗戦後、博多の地名ができた。 

⑤ よく似た状況は、仲哀天皇と神功皇后の熊襲・三韓征伐がある。三つのケースとも朝鮮半島遠征と北九州の筑紫国が舞台となっている。熊襲、筑紫君磐井、筑紫君薩夜麻と筑紫国の人々が悲劇のヒーローになっていることは、トンデモ説の九州王朝説の主張も吟味して研究する必要がある。