長門国の改名の謎 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県は古代、穴門国と呼ばれたが、663年の白村江の戦いに敗れた後、北九州の太宰府の防衛拠点整備と同時の665年ころ穴門国から長門国に改称させられた。国を立て直し、倭国を日本国と名乗る701年までの間の過程にあった。

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国防の観点から、地理を良く知られた名称である穴門国を消去し、音は似ているが字体の異なる長門国を作り出したと解釈出来る。ちなみに、同時期に築城した朝鮮式山城の長門城は場所が明らかにされていない。

ちなみに、他には名称を変更した国は無く、大和国は大倭国、大養徳国とかに変更されたが訓読みのヤマトは変わっていない。


参考

① 長門国

長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。

 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、穴門国造の領域と、阿武国造の領域をあわせて穴戸国が設置された。ちなみに、穴門についても安那人(朝鮮半島由来)の居所という解釈があるらしい(参考)。


665年(天智天皇4年)には、筑紫国の大野城や基肄城
と並んで、長門国に場所不明の長門城が築かれた。675年(天武天皇4年)には、畿内と陸奥国と長門国を除いて、国司は大山位以下を任じることが定められた。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は筑紫太宰を上に持っていた(wikiより)。

律令制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた(コトバンクより)。


663年に白村江の戦いが勃発するが敗北し、朝鮮半島からの完全撤退を余儀なくされた。これを受け国制整備・国力増強への志向が急速に強まった。

672年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、律令国家建設を加速し、7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行直前の701年前後に国号が倭・倭国から日本(ヤマト、ニッポン)へ改めた(wikiより)。


② 周防国(山口県の南東半分)

藤原宮(藤原京)木簡に「周方国」・「周防国」と表記。平城宮(平城京)木簡に「周芳国」・「周防国」と表記。

7世紀に周芳国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。『日本書紀』では、天武10年(681年)の「周芳国、赤亀を貢ず」が初見で、『続日本紀』では文武天皇元年(697年)に周防国であるが、翌年には周芳国献銅鉱となっている。 しかし文武天皇4年(700年)には周防総領任官の記述が有るのでどちらも使われていたと思われる(wikiより)






長門国の名称は665年が初見と言うが、以前、継体天皇が527年の筑紫君磐井の乱で長門国に言及している。