壬申の乱、やはり近畿の話であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

壬申の乱、近畿説では三カ所の関を通過した可能性が極めて高い。これを否定する為には、他説では確実な遺跡の発見が必要であろう。


参考

① 不破の道

壬申の乱において、大海人皇子は、舎人(とねり)(下級官人)らが、美濃尾張で天智天皇の陵墓を作るための人夫の徴発をし、武器をもっているなど不穏な動きがあるということで、挙兵を決意しました。672年6月22日には美濃へ3人の使者(村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつのきみひろ)・和珥部臣君手)(わにべのおみきみて)を送り、「安八磨郡(あはちまのこおり、現在の大垣市から池田町あたり)」の兵を徴発し、「不破道」の閉塞を命じています。※「不破道」はのちの「不破関」の可能性が高いですが、日本書記には「不破関」の記述はありません(参考)。


② 野上行宮跡

{8C46965D-8397-48C6-B6C0-4A539F8AC4BC:01}

桃配山に程近い見晴らしの良い丘の上に、「野上行宮跡」があります。現在は草に覆われていますが、わずかな石垣が当時を偲ばせるものとして残っています。「壬申の乱」にて大海人皇子は、672年6月野上行宮に入り、関の藤川(現在の藤古川)の右岸に陣している大友皇子と戦いました。大海人皇子は全軍の指揮を長子の高市皇子に任せ、自身はここ野上を動かずにいたともいわれています。また大海人皇子による大友皇子の首実検もこの地でおこなったそうです。勝った大海人皇子は、この地で位を受け継がれ、野上から大和の都へ帰って行きました。ちなみに、大海人皇子が野上行宮に入られる以前は、この土地の長者が屋敷として使用していたとされています(参考1参考2)。

朝鮮式土器も出土し、乱後、行基が行宮廃材で南方六坊を建てたとも伝えられている地。背後に南宮山系を控え、池田山系との合間に位置する(参考)。


③ 鈴鹿関跡

瓦ぶきの築地(ついじ)塀など8世紀の立派な造りの遺構が2006年9月に確認され、奈良時代の3つの関所の一つである「鈴鹿関」跡との見方が有力になった三重県亀山市の遺跡。今も高さ1m前後の土塁状の遺構があり、元々は3mほどあったとみられている。延長約60m分が残っている。さらに、聖武天皇が造営した副都・難波宮のものと同じ文様の軒丸瓦があったため、聖武天皇による伊勢巡幸(740年)に伴い、壮大に見せるよう仕上げたたとの見解がある。所在地は不明だが、巡幸中に滞在した鈴鹿の「赤坂」という頓宮(とんぐう)名も『続日本後紀』に記録されている。(天野幸弘 朝日新聞記者 / 2008年、コトバンク)


④ 愛発関

北陸道の要衝に置かれた古代越前の関。近江との国境付近にあり,敦賀市南部の山間部,追分,疋田,道口等に比定されているが不詳。東海道の伊勢国鈴鹿(すずか)、東山道の美濃国不破(ふは)関とともに三関の一つ。三関は天皇・太上天皇が没したり反乱の発生等のとき閉鎖され,京における反乱者の東国逃亡の防止をめざした。764年(天平宝字8)9月惠美押勝の乱のとき,押勝は子息辛加知が国守を務める越前に愛発関を通り入ろうとしたが,追討軍の先まわりのため入関を果たさず近江で捕らえられ斬られた(コトバンクより)。



{0B89F9C3-B529-47A4-983E-89F55CD84F9A:01}


⑥  壬申の乱、非近畿説では以下の通り主張する:

 『令義解』第五の軍防令第十七では、関について其三關。謂。伊勢鈴鹿。美濃不破。越前愛發等是也。(原本では謂から也まで細字二行で記されている。)と書かれてる。『続日本紀』、『日本後紀』、『令義解』を見てみると、美濃国不破郡関ケ原の関の名は、美濃關または美濃不破關と呼ばれていたことが分かる。関ケ原は不破関ではないのである(参考)。

しかし、美濃不破關と不破関は同一で関ヶ原の他には無い(参考)。

さらに、雷山神籠石のある福岡県前原市の山の中の万葉歌碑の歌に出てくる「不破乃世伎」(参考)が壬申の乱の不破関とどう関係するのか理解出来ない。


⑦  不破関 ふわのせき

美濃(みの)国(岐阜県不破郡関ヶ原町)に置かれた古代の関所。伊勢(いせ)国(三重県)鈴鹿(すずか)関、越前(えちぜん)国(福井県)愛発(あらち)関とともに三関(さんかん)の一つ。646年(大化2)の大化改新の詔(みことのり)に「関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)を置け」とあるのに基づいて設けられたものと思われる。壬申(じんしん)の乱(672)のときには大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が本営を置いたが、関所は設けられていなかった。708年(和銅1)には三関国守のことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』にみえるから、このときまでには置かれていたことがわかる。709年藤原房前(ふささき)が東海、東山両道の関(かんさん)(関所、とりで)検察のとき、美濃守(かみ)が賞揚されている。桓武(かんむ)天皇のとき789年(延暦8)7月、蝦夷(えぞ)征討も進んだため、交通の妨げとなるとして、三関は停廃された。しかし、国家の大事に際し固関使(こげんし)が形式的に派遣された。[田名網宏](日本大百科全書より)


⑧ 十津川郷士

古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている(wikiより、参考)。