長津宮、磐瀬行宮、朝倉橘広庭宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

斉明天皇が白村江の戦いに臨むために九州に行幸されたところに、長津宮、磐瀬行宮、朝倉橘広庭宮がある。この長津、磐瀬、朝倉の地名は、やはり大阪湾岸から大和盆地へ一直線に並んでありました。朝倉はすでに筑後平野と大和盆地にあることはよく知られていたが、他の2つの地名を捜した。長津はナカツと読み、那珂津や中津の対応を捜した。磐瀬については大和盆地の西端に磐瀬の杜があり、これであろう。これらを地図上に並べると、一直線に並んだ。

これを北九州の福岡に対応させると、長津宮(中津)は博多湾岸の那津(那珂津)でピッタリであった。朝倉は最奥部に対応し、筑後平野の朝倉でビッタリであった。磐瀬行宮は中間地点であれば何処でも良く、西鉄高宮駅近くの高宮八幡宮に磐瀬行宮についての云われがある。

朝倉橘広庭宮は、大和盆地の飛鳥が西端の磐瀬の杜と東端の朝倉の間の地点であるのに対応し、磐瀬行宮と筑後平野の朝倉の間にあるとすると、太宰府の地あたりと考えると辻褄が合う(参考)。

日本書紀の編者は畿内の地名をそのまま北九州に対応させるために、畿内の地名を素直に対応させたようだ!福岡市の古地名の那珂津や那珂川は奴国や那ノ津のナに由来していると考えられてきたが、実は大阪湾岸の中津(長津、ナカツ)が語源であろう!各地の那珂地名のルーツかも知れない。


参考

{3519E945-6B6C-4531-8CE3-30ED99FBEDE0:01}
中津1、磐瀬の杜2、朝倉3

{42C95FF8-DF83-4949-B52F-8F3533388F07:01}
1 中津 上町台地の北端、難波宮の北

{F8031C52-1E8A-48E3-928E-6A0BFEA9F66E:01}
2 磐瀬の杜、大和盆地の西端

{E3C1EF90-91DA-4BE1-BC36-0EF7052FC0FC:01}
3 朝倉、大和盆地の東端

{CA5D1A40-5388-4210-9A1A-131F1F3E183E:01}
高宮八幡宮、この近くに磐瀬行宮跡があるとか?ここと朝倉の中間に太宰府がある。



{1681A639-34BD-4B69-BC2A-EA0B1B88C0BD:01}

大分県の中津(ナカツ)も瀬戸内海の西端の港として、大阪湾岸の中津と対をなすと推定される。博多の地名も中津市内に存在する。後の世の豊臣秀吉の九州征伐の玄関口で黒田官兵衛のゆかりの地であり、姫路という地名もあり官兵衛由来かも知れないが、福岡は無い。古代、宇佐から中津あたりは必ず寄港する港であった(参考)。


長津、那珂津はナカツと訓ずることが出来、中津と書くことができる。例えば、長門を古くはナカトと訓じていた: 
ながとのくに【長門国】旧国名。長州。現在の山口県の西半部。東部は周防国に接し,他の三面は海に臨む。【古代】山陽道西端に位置する中国(《延喜式》)。律令制以前,その南西地方の下関海峡付近を穴門国(あなとのくに)と呼び,穴門国造が支配した。長門の国名は665年(天智4)が初見で,そのころから国司が管治する国となった。《和名抄》は〈ナカト〉と訓じ,厚狭(あつさ),豊浦(とよら),美祢(みね),大津,阿武(あむ)の5郡である(コトバンクより)。


磐瀬ノ森 いわせのもり:
奈良県北西部、生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町、竜田(たつた)川東岸の竜田大橋南付近の古称といわれる。しかし異説も多く、同郡三郷(さんごう)町立野の大和(やまと)川北岸の森にも「磐瀬の杜(もり)」の石碑がある。鏡王女(かがみのおおきみ)の歌「神奈備(かんなび)の磐瀬の杜の呼子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋増さる」(『万葉集』巻8)などに詠まれ、古来ホトトギス、紅葉(もみじ)の名所とされた。[菊地一郎](コトバンク)。


現在の中津は中津川(旧淀川)から来ており、一帯は旧淀川や中津川(長柄川)の沖積作用でできた土地である。隣りの地名、長柄、豊崎は、645年の大化の改新後の孝徳天皇の時代に飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)より遷都されて652年に完成された難波長柄豊碕宮に、「長柄」「豊碕」の名が使われている。

乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。建物は、朱鳥元年(686年)の正月に全焼するまで、現在の大阪市中央区に34年の間存続した。

白雉5年(654年)孝徳帝の没後、斉明天皇(皇極天皇が重祚)により飛鳥板蓋宮に遷宮された。その後は、天平16年(744年)になって同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれた(wikiより)。

長門国大津郡の深川廃寺あたりが対朝鮮半島の基地として筑紫の長津宮と連携していており、記紀の記述では近江国の大津宮と混同していた。